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最近のほぼ百字小説   2025年1月11日~1月24日

【ほぼ百字小説】をひとつツイート(ポスト)したら、こっちでそれに関してあれこれ書いて、それが24篇くらい溜まったら、まとめて朗読して終わり、という形式でやってます。気が向いたらおつきあいください。


1月11日(土)

【ほぼ百字小説】(5688) 小説を食わせると咀嚼して感想を吐き出す。それがおもしろくてずっとやっていたら、だんだん弱ってきて死んでしまった。食ってはいたが全部吐いていたのか、と今さら気づく。嫌ならそう言ってくれればよかったのに。

 ツイッターにGROK2 という機能がいつのまにかついてて、まあAIなんですが、それにこの【ほぼ百字小説】をそのまま入れると、感想を返してくれる。それがちょっとおもしろくて、ついついやってしまうんですが、まあこういう状態かも、とか。

【ほぼ百字小説】(5689) 悪いことをしたな、とは思ったが、なんと死んでもまだ小説を咀嚼して感想を吐き出すのだ。そういう行為は死んだあともまだやれる、というか、生きてる死んでるに関係なかったのか。まあ書くのも同じようなものかも。

 言葉活動は、言葉のほうが生きてるので、こっちが生きてるとか死んでるには関係ないのかも。どうもそういう気がします。ということで、もし私が死んでもずっと【ほぼ百字小説】が吐き出され続けていたら、そうだったのか、と思ってください。そうなったらいいんだけどなあ。

【ほぼ百字小説】(5690) いつのまにか娘が作っていた世界を覗き見て驚愕する。そうか、こんなことがやれるようになっていたのか。大したもんだ。いつか、いっしょに何かやれたらいいな。まあこっちが頼んでもやってくれないかもしれないが。

 こういうことがあったのです。それ以上は書けませんが、子供というのはいつのまにか大人になって、いろんなことができるようになる。びっくりしたなあ。

1月12日(日)

【ほぼ百字小説】(5691) 物干しへ出る引き戸の前に置いた箱の中で冬眠している亀に向けてラッパを吹いてみたのだが、今のところ箱の中から物音は聞こえない。冬の亀はラッパの音で盥から飛び出して煮干しを欲しがった夏の亀の夢を見るか?

 亀日記。年末に怪我をしたうちの亀は、今、箱入り亀、あるいは、シュレディンガーの亀状態。それにしても変温動物というのはおもしろい。寒くなると冷え切って、夏場とはまるで違うものになる。まあそっちのほうが当たり前なのかもしれませんが。ラッパを吹いたら亀が来る話は、『かめたいむ』に。

【ほぼ百字小説】(5692) 妻が描いた絵を取り込んで、画面上で彩色その他いろいろ、妻にも私にもできないあれこれを娘は当たり前のようにやってのけて、どうやって覚えたんだ? と尋ねても、まあなんとなく、としか答えられないようなのだ。

 こんな感じですよね。なんというか、世代の違いというのはすごい。我々だとまずマニュアル、とか思うんですが、最近はなんかマニュアルとかないんですよね。コンピュータと言えば分厚いマニュアルだったのになあ。しかし、なんでわかるんだ。

【ほぼ百字小説】(5693) 可動部分が減っていく。今は動いているところも、そう遠くないうちに動かなくなるだろうから、そのことを前提に、どんな瞬間に固まってしまっても問題ないように、常に決めポーズ、その連続として動くことにしよう。

 まああるあるですよね。いろんなところが固くなったり動かなくなったり。で、ロボットとかを考えると、止まってしまうときがいつか来るわけで、そして止まったらもうそのまんま。だから、どうせなら銅像みたいにいいところで止まりたい。なにをやってるんだかわからない中途半端なポーズで固まるのはできれば避けたいんじゃないでしょうか。

1月13日(月)

【ほぼ百字小説】(5694) あの白いシーツを頭から被ったタイプのオバケ、その中身は泥なのだ。泥だからシーツを真っ白に保つのが大変で、だから最近のオバケはもうシーツを被らない。ずいぶん様変わりしたとも、何も変わってないとも言える。

 いわゆる西洋のオバケ。私の世代は、たぶん子供の頃にテレビでよく見た外国のアニメでお馴染み。オバケのQ太郎もそのバリエーションでしょうね。そして昔から気になるし、けっこうネタにもなってきた、そのシーツの中身。不定形なものにあのシーツで形を与えてるのかも。あと、時代とともに変わったけど変わらないもの、とか。

1月14日(火)

【ほぼ百字小説】(5695) 大陸と島は崩れ落ちて海に溶け、すべては均一の泥になった。それが惑星としての進化の形だという説もあれば、それに対する反論もあるが、もはや地球ではなく泥球と呼ぶべき、という意見は泥人間の間で一致している。

 泥神話みたいなもんですね。泥世界の創生みたいな話。もちろん主役は人間ではなく泥人間。泥神話ですから。まあ神話というのはそういうものですよね。

【ほぼ百字小説】(5696) 誰が発明者なのかで揉めに揉めている。皆、自分こそがそうなのだと言い張って、議論は平行線。もう真相は横に置いて、それを使って決めてしまうのがふさわしい、とジャンケンの発明者を決めるジャンケンが始まった。

 まあこういうアホらしい話も。話はアホらしいですが、ジャンケンというのはほんとによくできてますね。何の道具もいらない。すぐにできる。離れていても見えるから、大きな会場で大人数でやれたりもする。紙、石、鋏、という見立てもいいですね。すごくわかりやすい。いやほんと、誰が発明したんでしょうね。

【ほぼ百字小説】(5697) 近所の神社での十日戎ジャンケン大会に参加しようと妻と娘と自転車を連ねて路地を行く。もちろん福を分けてもらうためだが、もうこれだけで充分か、と自転車を漕ぎながら思ったり。娘は見事に韓国海苔を勝ち取った。

 なぜジャンケンの話を書いたのかと言えば、これがあったから。そのまんまです。去年はビンゴ大会だったんですが、今年はジャンケン大会。近所のコリアンタウンの近くの神社なので、景品も韓国ものが多い。キムチ三千円分とか。ついでに書いとくと、最近やってる「百字小説教室」みたいなのでも言ったことなんですが、こういう本当にあったことの中からネタの元になるような言葉を探すと、自分の頭の外のものを自然に取り込めることになるので、アイデアのループみたいなのから抜け出しやすい。頭の中だけで考えてるとどうしても同じところをぐるぐる回ることになる。そして、実際にあったこと、というのは自分の感情を引っかけやすいいいフックになる。そういうのがあるとたとえ百字でもそこに没入しやすくなる。まあ書くときのちょっとしたコツ。

1月15日(水)

【ほぼ百字小説】(5698) 昔は物干しから富士山が見えた。銭湯の壁に描かれたような富士山が、近所の瓦屋根の向こうに見えたのだ。今はもう見えないのか、今も変わらず見えるのか、すっかり夢を見なくなってしまった今では確かめようもない。

 昔は東京のあちこちから富士山が見えた、という話を聞いて。俳句とかにもなってますね。物干しとかから見えたんだろうな、と思う。そして、物干しからの富士山というのは夢の中の風景っぽい。もちろん、一富士二鷹、からの連想もある。
ということで、これはじつはよく見ていた夢の中の風景、というのがオチになっていて、実際、子供の頃にそんな夢を見たことがあるような気もする。だからこれも夢オチの一種になるのかな。まあ「夢オチ」オッケー派の私としては、どっちでもいいですが。

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