日々のなかにあるもの
桜はいつの時代も人々の心を魅了したのだと思う。今年も、去年も、おととしも。世界がコロナという脅威におびやかされていたあの春も、わたしたちは桜の開花を待った。
その美しさと、儚さ。満開になったと思えば、いつの間にか散りゆく。その切なさにまた、人々は惹かれているのかもしれない。そんなことを思いながら、徒歩2分ほどのゴミ出しの道を歩いていた。
先週ゴミ出しにここを通った日は、雨が降ったあとで、桜の花びらが塀に張り付きピンク色の小さな水玉模様のようになっていた。心に響く景色というものは日常の中にたくさんあるのだなあと知った。携帯電話を持たずにゴミ出しに来ていたので、その景色は目に焼き付けるしかなかった。
わたしはいま築35年の平屋の戸建てに暮らしている。縁側と庭と車庫の付いたこの家をとても気に入っている。家賃は6万円で、冬はとても寒くて、夏は風が吹きぬける。温かい季節にはたくさんの友だちを招いて、この家での思い出を刻みはじめた。
最近作った小さな畑には、ほうれん草と人参と水菜を植えた。生えてきたのはほうれん草だけだった。そう簡単には行かないなあ。
キッチンには栗原はるみさんの料理本と、母が書き溜めてくれたレシピノート。これだけで十分。結局、好きなものばかり、同じものばかりを何度も作ってしまうしね。
特別なことはあまりなくても、今日は朝ご飯を縁側で食べて気分がいい、とか。庭に前に住んでいた人が育てていたであろうネギが生えてきた、とか。今日はふたりの食べたいものが一致した、とか。農家さんがおすそ分けしてくれた野菜が美味しかった、とか。夕焼けを見逃さなかった、とか。わたしたちの喜びはいつもすぐそこにある。
身の丈に合った生活が、そんな大切なことを教えてくれているように思う。大冒険が大好きなわたしたちだからこそ、ここにある生活に想いを馳せる時間がうんと重要なのだ。
外に出ていくことが大好きなわたしたちだからこそ、家での生活がうんと重要なのだと思う。なぜなのか、うまく説明をする自信がないのだけれど、確信に近い形でそう思うようになった。
それは、練習でできないことは本番でできない、みたいなことに近いような気がする。家で旅をできないものは、どれほど遠い場所に行こうが旅などできない。旅人として、そう思う。