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冬がれに春たちて

 
 
 
 春、まだ淡き日。

 私の心を根こそぎ奪って(とって)行った女(ひと)の残り香と遭遇した。

 いや、出会って──しまった。

 顔を見ても全く気づかなかった。似ても似つかなかったから。

 気づいたのは偶然。特に珍しくもない苗字の方ではなく、名前を見た時。

『中村冬詩(なかむら とし)』

 その文字を見た途端、17年前の記憶の引き出しから彼女の言葉が甦り、冬空のように冴え冴えとした早春の空を舞う。

『いつか、もしかして子どもを持つことがあったら“冬詩”って名前を付けたいんだよね。男でも女でも、冬の詩、って書いて“とし”……まあ、結婚するかどうかすらわかんないけどさ』

 そう言って笑った女(ひと)。

『夏が誕生日だったらどうするの』

 私の質問に悪戯っぽい目で笑った女。

 出会ったのは、冬から春に変わる早春の頃。

 そして──。

 別れたのは、早春と言うにはもう遅い、けれど暖かい中に寒さが残る頃だった。

 3学期も落ち着いて学年末試験も近づこうと言う頃、勤務している中高一貫校の保健室にふらりと入って来た生徒──それが彼『中村冬詩』だった。

「……センセ……薬ください……あったま痛ぇ……」

 ワリとおとなびた見かけだが、見れば中等部の制服。3年生のようだが初めて見る顔。

「どうした? 風邪か?」

 訊ねた私の声に一瞬驚き、振り向いた顔を凝視して来た。

「何だ? 私の顔に何かついてるか?」

 頭痛のことも忘れたように私を見、すぐにまた片手で頭を押さえる。

「……キレーな女のセンセーが優しく薬飲ませてくれると思ったのに……」

 ……などと生意気にもほざく。

「バーカ、夢見過ぎだ。ほれ、風邪っぽいのか? それとも頭痛だけか?」

「……頭痛……寝不足だと思う……」

「……ったく……季節の変わり目にわざわざ体調崩すようなことするなよ……ほら、ここに学年クラスと名前書いて……」

「……しょーがねぇじゃん……引っ越しで忙しかったんだから……」

 ぶつぶつと文句をタレながら書き込んだ記名帳を渡され、引き換えに頭痛薬と水を渡す。

「引っ越しだったのか?」

 訊きながらもちゃんと飲んだかを見届けないと、バカをやる生徒もいたりするから要注意だ。

「……ん……昨日、この近くのじーさんたちの家に引っ越して来たから……」

「昨日? ……見ない顔だと思ったら……もしかして転校生か? こんな学年末も近い今頃の時期に……」

 不思議に思いながら記名帳を見、私の目はそのまま釘付けになった。

(……冬……詩……? それに、中村……? 中村冬詩……だと……?)

 何もしてないのに心臓の鼓動が加速する。身体中を駆け巡る血流を追いたてるように。

「……高校からの方がキリがいいし楽だったんだけど……しょーがない……カテーのジジョー、ってやつだし……」

 ゴックン、と音を立てて飲み下す。

「……そうか……ところで、きみのこの名前、何て読むんだ……?」

 心と共に震える手。それを押し隠し、さりげなさを装おって訊ねる。

「……とし……」

 何の感慨も含まない声で短く答え、コップを差し出して来た。まくった袖から見える腕に、かなり大きな怪我の名残り。気にはなったが聞きづらく、何より私の意識も他に傾いていたので、敢えて触れないことにした。

「……珍しいな。なかなか凝ったご両親なのかな」

「母さんの趣味だって。どうしてもこの名前にしたかったんだってさ」

「……そうか……」

 どうでもいい、と言う感じの、だが、予想通りの答えに、私も心ここに在らず、の返事になる。だが、苗字が『中村姓』と言うことは──。

「……家庭の事情、で……お祖父さんたちのところに越して来た、ってことは、もしかして……ご両親、離婚でもされたのか?」

 立ち入り過ぎであることはわかっていた。けれど、訊かずにはいられなくなっていた。

「……父さんはとっくにいない……チビの頃に事故で死んだ」

「……え? じゃあ……」

 坦々と答える彼に、だが、苗字が母親の旧姓であることまではさすがに突っ込めない。慌てて口ごもる私を特に勘繰る様子もなく、だが、微妙な間の後、彼──中村冬詩はひと言で答えた。

「……母さんが死んだから」

 大学1年の冬、学内の図書室で見つからない本を求めて訪れた、大学と隣り合わせるようにあった公立の図書館。本の揃えの良さに通い詰めるようになり、そこで出逢った司書──それが中村美鶴(みつる)だった。

 見るからに体育会系で、とてもインドア派とは思えない彼女。まして、図書館に勤務しているとは思えない印象だったが、間違いなく正式な司書。完全に仕事と私生活を切り離している見本のような女(ひと)だった。

 ある日、大学近くのファーストフードで、わかりにくい参考書と格闘している時、不意に目の前に影が出来た。顔を上げると、彼女が覗き込むようにしている。

『こないだ貴方が探してた本、入庫したよ……え、と……曽田(そだ)……一志(かずし)くん……?』

『……えっ……?』

 何で名前を、と言う疑問は、次の彼女の言葉ですぐに解決した。

『ああ、突然ごめん。いつも本を借りてくでしょ? 名前、覚えちゃったよ』

 そう言って朗らかに笑った。

 それが始まりだった。

「あんまり頭痛が酷いようなら、少し休んで行ってもいいぞ」

 コメカミを押さえて顔をしかめる様子に、私はつい情け心をかけてしまった。

 ──母さんが死んだから──

 その言葉に、少なからず影響を受けたのもあるかも知れない。彼の心情を慮る云々よりも、むしろ己の心に。

「マジすか……お願いします……」

 奥のベッドを貸してやると、やはり疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえて来た。眠っているのを確認してカーテンを引く。

 デスクに戻り、仕事を再開しながらも、無意識に彼━━中村冬詩の顔を脳内で分析していた。

(……彼女にはそれほど似ていない。……つまり、父親似ってことか……)

 彼女と別れて17年。彼女の息子が中三。

 恐らくは、別れて程なく彼女は結婚したのだろう。私ではない、他の男と。

 仕方のないことだ。別れた時、大学卒業も就職も決まってはいたけれど、私はまだ一人前ではなかった。仕事に慣れたら、などと、ひとり心の中で決意していたことなど彼女は知らない。知るはずもない。いや、それ以前の話で、申し入れたとしても彼女が受け入れてくれたのかも定かではない。

 そんなことなど関係なく、彼女はもう私との別れを決めていたのかも知れないのだから。

(……あの時、何が足りなくて彼女を失ったんだろう……)

 いや、失ったのではなく、手離してしまったのかも知れない。ほんの少し手を伸ばせば、必死で追いかけていたら──。

(……もしかしたら、取り戻せていたんだろうか……この手から、失わずに済んだのだろうか……)

 『中村冬詩』と書かれた文字をぼんやりと眺めた。すると、彼女との日々が、そのたった4文字に凝縮されている気さえして来る。

 一度、開け放たれた記憶の扉からは、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車から押し出される乗客のように、勢いよく思い出が溢れ出した。こんなにも鮮明に、私は彼女のことを忘れていなかったのだ、と。

『女の子で“とし”はないんじゃない?』

『私だって音(おん)だけなら“みつる”だよ? 別に良くない?』

『ざっくり感半端ないよ、美鶴さん』

『細かいなぁ。“としこ”とか“としえ”でも何でもいいよ』

 面倒くさそうに言いながら、でも楽しげに彼女は笑った。何でもいい、と言いながら、“冬詩”は譲らないことに、私もつられて笑う。

『……いや、そもそも、何で“冬詩”って名前がいいの?』

 根本的な質問に戻ると、少し考えるように首を傾げた。

『……司書なんてやってるけど、あたしって見ての通り、本来は体育会系じゃない?』

『……まあ、そうかな』

 私の答えに「正直過ぎるよ!」と少し頬を膨らませ、すぐにまた楽しそうに話し出す。

『でもさ……高校の時に、作文って言うか文芸コンクールが毎年あってね。たまたま、ある年のお題が季節の詩、ってえらく抽象的だったの。そん時に、冬の詩の部門で金賞取れたんだよね……後にも先にも一回切りだけど。まあ、それが何だか嬉しくて、勢いで司書になんかなっちゃったんだ。スポーツのインストラクターにでもなれば良かったのにねぇ』

 そう言って、また笑った。

 その笑顔を、私はいつまでも見ていたい、と思った。

「……センセー……ありがとうございました……」

 急に声をかけられ、我に返った。気づけば、既に1時間ほど経っている。頭をさすりながら起きて来た中村冬詩が、ペコリとお辞儀をした。

「……おう。大丈夫か?」

「……はい。少しスッキリしました」

「そうか。無理するなよ」

「……は〜い……」

 その時、私はふと思い出した。

「ところで、その傷は大丈夫なのか?」

 やはり気になり、腕の傷のことを訊いてみる。

「ああ、これ? ガキの頃のなんで、もう全然ダイジョーブす。頭にも背中にも跡あるんで……」

「そうなのか? なら、いいが……気をつけろよ」

「はーい」

 そう言って部屋を出ようとした彼が、何かを思い出したように振り返った。

「そー言えば、センセって名前何てーの?」

「……曽田だ」

「曽田……何?」

 一瞬、戸惑う。まさか、そこまで訊かれるとは思わなかった。

(……下の名前も教えろって言うのか? まあ、まさか私の名前など母親から聞いてはいないだろうな……)

 言い淀む私の顔を、遠くから覗き込むようにし、

「……教えたくないくらい変な名前なんすか?」

 不思議そうな顔で不埒なひと言。

「何でそうなるんだ! ……一志だ……曽田一志……!」

 思わずムキになってしまった私に、

「さっさと教えてくんないからだよ。フツーの名前じゃん」

 そう言って吹き出すように笑い、軽やかに駆けて行った。

(運動神経の良さそうなところは、彼女に似ているのかも知れない……)

 後ろ姿を見送りながらぼんやりと思う。

 私の胸の中に燻り出す、絡み合った複雑な感情。それは、今さら彼女の忘れ形見に出会ってしまった不思議と、似ていないが故に面影を見ないで済む安堵と、逆説的な残念さ、と共に、結局、彼女を忘れることが出来ていなかった自分への情けなさも加わって綯(な)い交ぜになったもの。

 だが、そんな私の葛藤など関係なく、それから彼──冬詩は、時々、用もなく顔を見せるようになった。

『一志くんってさ……一緒にいる人をホッとさせる空気持ってるよね』

 知り合った頃、彼女は良くそう言っていた。当時の私には、それは到底誉め言葉には聞こえなかったが。

『……ただの“いい人”って言いたいんですか?』

 言われるたびに訊き返したが、彼女はいつも悪戯っぽく「わかってないなぁ」と笑うだけ。彼女の方が歳上ではあったのだが、何だか差をつけられてるみたいなセリフが面白くなかった。そこで拗ねてること自体が既にガキなんだと、今ならわかるのに。

 黙って背を向け、スタスタ歩く私の腕に、彼女はするりと手を滑り込ませて指で掴んだ。それだけで、もう、私は不機嫌の理由をそこらに落としてしまうくらいにはガキで。

 本当にどうしようもなく、彼女を好きになっていた。

 冬詩は高等部に進級してもちょくちょく顔を見せた。

「具合が悪い訳でもないのに入り浸るなよ」

「先客がいる時はちゃんと遠慮してるよ。いーじゃん」

「“客”とか言うな!」

 特にどうと言うこともなく、日常のことや、家族のことを話したりする時間は、時として彼女と過ごした時間をダイレクトに思い出させる。彼女の話も出るのだから当たり前なのだが、ご両親と姉と兄がいることは聞いていた。姉御肌と思っていた彼女が、実は末っ子だったことに驚いた記憶がある。

 冬詩がここに来ている理由も、どんなつもりで自分のことを話しているのかも定かではない。けれど、私もどうしていいのか、どうするべきなのかわからないままに、彼の話に付き合っていた。もしかしたら、私と別れた後の彼女のことを知りたい、と言う気持ちも、心のどこかにあったかも知れない。

 彼女のお父さんは、冬詩が産まれる前に難病にかかり、闘病生活を彼女と兄姉と三人で支えたのだと言うこと。

 産まれた冬詩の存在が、お父さんの大きな支えになっていたらしいこと。

 ようやく落ち着くと言う頃に、今度は冬詩の父親が亡くなったらしいこと。

「……それじゃあ、お母さんは大変だったろうな」

「ん~……でも、何か、おれのこととかも一気にあって、一連の流れで怒濤のように過ぎちまった、って言ってたなぁ」

 あっけらかんと言う様子に、きっと彼女はあのバイタリティとパワーで乗り越えたのだろうと、その姿が目に浮かぶようだった。

 私たちは、いつの間にか図書館以外で逢うようになり、いつの間にか互いの部屋を行き来するようになっていた。講義とバイトの合間を縫って、図書館にも通いつめていた。時々まとまった時間が取れると、体育会系の彼女に海だの雪山だのに連れ出されたりもした。

 物理的な力以外、私は何ひとつ彼女に敵わなかった。泳いでも、滑っても、走っても、笑えるほどに勝てなかった。けれど楽しかった。それで良かった。

 恐らく私は、この時、初めて知ったのだ。それまでのガールフレンドでは知り得なかった、『女性』と言うものの『本質』を。こんなにも不思議で、尚且つ、しなやかに強い生き物であることを。

 図書館でテキパキと仕事を熟す彼女は別としても、サバサバしてたくましい彼女、朗らかに笑う彼女と、部屋でふたりきりで過ごす時の彼女は、私の目から見れば別人のようだった。

 部屋で、キッチンで、ベッドの上で、彼女はまさに『女の塊』だった。

 私を受け止めてくれる身体はあたたかくやわらかで、包んでくれる心はどこまでも広く深く無限に思えた。

 今ならわかる。当時の私は、自ら彼女に溺れた。根こそぎ心を委ねた。そして、彼女もそれを受け入れてくれた。

 受け入れてくれている、と──そう、思っていた。

 あの日までは。

『……ごめん、一志。……別れよう……』

 突然、告げられた言葉に、心も身体も硬直した。

『……何で……』

 口からはそれしか出て来なかった。

『……やらなきゃならないことが出来たの。だから、3月いっぱいで実家に帰ることにした』

『……だからって……』

『……ごめん……今、それ以外のこと考える余裕ないんだ……ごめん……』

 初めて見る、彼女の泣きそうな顔、俯いた姿。決して小柄ではなかった彼女は、実はこんなにも小さかったのかと、当時の私には驚く余裕すらなかった。

 私の横を通り過ぎ、去って行こうとする彼女の腕を掴むことすら出来ず、ただ振り返り、遠ざかって行く小さな背中を呆然と見つめた。問い質すことも、強引に引きとめることも、抱きしめることも、もちろん、追いかけることも、後々連絡することすら出来ないまま━━。

 それが、その時の私の精一杯だった。

 土曜日になると、冬詩はいつの間にか保健室で昼飯を食べるようになっていた。結果、必然的に私もそうせざるを得ない。生徒を残して部屋を空ける訳には行かなかった。平日は来ないところを見ると、きっと同級生たちと食べているのだろう。

「そー言えば、センセって奥さんいないの?」

 どう見ても買ったとしか思えない弁当を見、冬詩はパンを齧りながら訊いて来た。

「何でだ?」

「いっつも買った弁当食ってるから。作ってくれる奥さんいねぇのかなーと思って」

『そう言うお前だって、いつもパンとかおにぎり買って来てるじゃないか』

 危うく言いかけた言葉を飲み込む。言ってはならないひと言だ。これだけは。

「……余計なお世話だ」

 だが、そう返した私に、冬詩は飄々と言う。

「センセーかわいそー。おれは、いつもはちゃんと手作り弁当だぜ。ばーさんと義伯母さんが毎日作ってくれてるから。土曜日だけなんだよなー……こーゆうモン食えるの……うめぇ!」

「そうかい、そりゃあ、良かったな!」

 気なんか使わなきゃ良かった、と思いながらも、心のどこかでホッとしていた。母親を喪っても、何とかうまくいっているのだ、と。そして、彼女のご両親も元気でいるのだ、と。冬詩の話から、彼女が実家に戻った理由は、病気になった父親のためだったのだから。

 そして、きっとその時、彼女を支えたのが冬詩の父親だったのだ。

 あの頃、彼女にとっての私は、そんな話も出来ないほどの存在だったのだろう。あまりに若造過ぎて、頼るどころか打ち明けることすら出来ないほどに。

 今頃になってその事実を突き付けられ、だが、今更どうすることも出来ない。私はパンを頬張る冬詩の顔をそれとなく眺めた。

「……でも、センセってさ……何か一緒にいる人をホッとさせる空気っつーか……持ってるじゃん」

「……あ?」

 唐突過ぎる言葉に、咄嗟に反応出来なかった。彼女に言われていたのと全く同じセリフに心を掴まれる。

「……だから結婚してねーなら不思議だなーと思ってさー……」

「……結婚しようと……考えたことくらいあったさ……」

「……へぇ~……?」

 それは真実だった。

 彼女と別れた後、決して潔癖に生きていた訳じゃない。結婚を視野に入れた相手がいなかった訳でもない。けれど、いつも最後の最後で踏み切れなかった。大切に想ってくれる相手に応えられない自分、本気になり切れていない自分にどうしても幻滅してしまう。何よりも、空虚な気持ちと言うのは、必然的に相手に伝わってしまうものだ。

「……お前、信じてないな……?」

「そんなことねぇって! センセー、被害妄想!」

「どうでもいい、みたいな返事しておいて何言ってる!」

 互いに言い合って吹き出し、そのまま笑いが止まらなくなる。

「あ~うまかった!」

 食べ終わって満足気な冬詩が、陽当たりの良い窓際に立った。ひと気の少ない土曜日の校庭を、窓枠に寄り掛かり眺めている。私はデスクで仕事を再開した。━━と、その時。

「……先生……」

 突然、土曜の午後の気怠さを含みながらも真面目な声。

「……ん?」

「……あのさ……」

「……うん、何だ?」

 私は手を止めずに答えた。背中に感じる躊躇う気配。いつも好き勝手に話し出す冬詩にしては珍しいほどの間(ま)。

「……先生……母さんのこと知ってるんだろ……」

 瞬きとペンを持つ手が止まった。何を言われているのか反芻する思考と、何故知っているのかと言う思いと、否定しなければと言う思いが押し寄せ、だが、声を出せば確実に震えてしまいそうだった。

「……何でそう思うんだ……?」

 何か答えねばと、精一杯、平静を装おった声で返す。

「……話してて、何となく……」

 その言葉に、脳内を冬詩との会話のあれこれが駆け巡った。会話には十分に気をつけていたつもりだったのに、と。

「……つーか、初めて会った時に、何となくそうじゃないかな、って思ったんだ……」

 さらに愕然とした。初めて会ってからもう3年近く経とうとしているのに、今までに一度もそんな気配を感じたことはなかった。否定することさえ忘れて呆然とする私に、冬詩は遠慮がちに付け加えた。

「……間違いない、って思ったのは、先生の名前を聞いた時……一志、って……」

 私は冬詩を振り返った。だが、彼女が私のことなど教えていたとは思えなかった。ならば、この子はどこで私の名を知ったと言うのか──?

「……母さんが死んだ時……連絡入って、おれ、伯父さんに連れられて急いで駆け付けて……母さんの手を握って呼び掛けたんだ。……そしたら、おれの手を握り返して、何か言いたげに唇が動いて……」

 デスクに置いた手が震える。正常に機能しているのは、冬詩の声を聞いている耳だけであるかのように。

「……父さんの名前を呼んで……それから、ごめんって言って、おれの名前呼んで……その後、ちょっと聞き取りづらかったんだ……『~し』って……。最初、おれの名前……『とし』かと思ったし、実際、最後はおれの名前を連呼だったから気に留める余裕もなかったけど、でも後から思い出したら『し』の前の音が『う行』だった、って……」

 無意識の内に、自分の名前を口の中で唱えていた。『かずし──ず──う行』と。

「……だから……先生の名前聞いた時、『この人だ』って……間違いない、って……何でか思ったんだ……」

 否定どころか、ひと言も出て来なかった。ただ、ただ、耳が冬詩の言葉だけを拾っている。けれど、何か言わなければならない、そう思った。

「……そんなの偶然だろう……珍しい名前じゃない……」

「……うん……でも、何でかわかったんだ……初めて会った時、母さんが言ってたことが突然頭の中に浮かんで来て……」

  ポツリとつぶやく。

「あ、別に先生の名前とか素性とかを聞いたんじゃないぜ? ……ただ、前に母さんに再婚とか彼氏作ったりしねーのか、って訊いたら……」

 そこまで言って、冬詩は急に言い淀んだ。会話能力が完全に枯渇していた私は、そこでも言葉を挟めずにボケッと聞いているだけだった。

「……自分には、忘れられない、忘れたくない大切な人が二人いるから、もういいんだ、って……」

 私の呼吸が、息を吸い込んだまま止まる。

「……おれの父親と、もうひとりいるんだー、つって……自分の背景も含めて全部受け入れてくれた人なんだ、とか……フツー子どもに話さねーだろ、恋バナなんて、って思ったけど……しかも、思春期の息子に父親以外の男の話まで、って……正直、どんな顔して聞けっつーんだよ、って……苦笑いしか出て来なかったけど……」

 そうボヤくと、冬詩は本当に苦笑した。片や私は、身動きひとつ出来ずに固まっていた。

「……へへ……いつかセンセがポロッとボロ出すかな~と思ってたんだけど、どうもテッペキの守りみたいだし……だから、卒業する前に話しておきたかったんだ……じゃっ、また!」

 微動だにしない私を余所に、冬詩はスッキリした、と言うように軽やかな足取りで出て行った。取り残された私の頭の中は、思いつく限りの彼女との想い出にメチャクチャに掻き回されている、などと知りもせずに。

 彼女に別れを告げられた春、朽ちることさえ出来ずに凍りついた私の心は、それからもずっと冬のままだった。いっそ、もう、かれ果ててしまいたいと願いながら溶かせなかった日々は、知らなかった彼女の想いと共にようやく朽ちることを許されたのだろうか。

 この日の話などなかったかのように、冬詩はそれからも姿を見せた。そのたびに、私の心は少しずつ朽ちて行き、冬を越えようとする。もう、手離して良いのだ、と。

 やがて卒業を迎え、少し離れた大学に進学しても、冬詩は実家に戻った時にはここを訪ねて来た。

 *

 冬詩が卒業してから最初の新年。もう少しで彼女や冬詩と出会った季節を迎える、と言う頃。新年早々の連休明けは暖かい日差しで、室内にいると心地良い眠気を誘う日だった。

「……ちわー。センセー、お久しぶりー。ほい、缶コーヒー」

 書類の確認をしていた私の背後に、聞き慣れた、だが久しぶりの脱力感満載の声。

「……何だ、休みなのか?」

「この連休に帰って来る予定だったから、年末年始は友だちとスノボ行ってた」

 その言葉に、昔、彼女に連れ出された雪山を思い出し、『ああ、似ているな』と笑いが洩れそうになる。

「……そうか。ご家族はお元気なのか?」

 冬詩がくれた缶コーヒーを開けながら、私は時候の挨拶的に訊ねた。

「……あ~もう元気元気。じーさんとばーさんなんて、成人式だからっつって張り切ってくれちゃって、昨日は大騒ぎだった」

 思わず手が止まる。その言葉に、私の思考はまさに吹っ飛んだ。

(……今、何て言った……? ……成人式……? ……誰の……?)

 自分の部屋の椅子のように腰かけ、缶コーヒーを飲んでいる冬詩を見つめる。

「……お前、1年じゃないか。成人式は来年だろう?」

 震えそうになる声を懸命に堪える私を、缶に口をつけたまま上目で見、冬詩は「あぁ」と言うように頷いた。

「そー言えば、話してなかったっけ? おれ、就学直前に一年近く療養してたんすよね。……まあ、生きてて良かった、ってレベルのケガで。だから、ホントなら2年……なんで、11月でもう20歳になった」

 大怪我の話は聞いていた。だが、就学遅れのことまでは聞いていなかった。それよりも、頭の中をかつて受けた講義の内容とカレンダーが駆け巡って行く。知らなければ良かった、と。

「……って、センセー? 具合でも悪いの?」

 その時、私は必死だった。必死で答えた。

「……いや……知ってたら祝いくらいしてやったのに、と思ってな」

「マジすか!? うっわー……言っときゃ良かった……!」

 本気で悔しがる冬詩に、私の頭が少し冷静になり、考えずとも言えるようなセリフが、何故かスラスラと出て来る。

「どうせ、またすぐに来るんだろ? その時は事前に連絡寄こせ。メシくらいご馳走してやる」

「ホントに!? やりぃ! 肉肉! 焼き肉……いや、すんごい分厚い上等なステーキがいいな!」

「……ああ、何でもいいぞ。その代わり、ちゃんと前もって連絡しろよ」

「します、します! 絶対、します! やった! じゃ、またその時に!」

 本当に、顔は彼女にそれほど似ていない。けれど、はしゃぐ様子が彼女と重なって私の心を揺さぶり、こみ上げてくる感情は言葉として変換されなかった。

 『冬詩の父親』と『全てを受け入れてくれたもうひとり』。

 そこに確証はない。彼女はもういないのだから。私には、冬詩にこれ以上の話をする権利はない。資格もない。

 ただ、私たちが別れたあの時には、彼女も気づいていなかっただろう。

 しばらく立ち尽くしていた私は、帰って行く冬詩の後ろ姿を窓から見送った。次に会う時には、またいつものように迎えよう、と心に決めて。

 春立つ日差しの中、いつの間にか微かに舞う雪が彼の背を霞ませる。

 何もかもが足りなかった私が、ほんの僅かでもあの若い命の糧であるなら、そして、これからもそうであるなら、こんなもの、あの若い芽の肥料にでもなればいい。ようやく朽ちたものを手離す時を迎えたのだ。

 それでいい、と祈りながら、冬に涸れた心を、枯れ果てた想いを春に断ち──私は早春に舞う風花と共に散らした。
 
 
 
 
 
~おわり~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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