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ニーチェ「神殺しと力への意志」 ギリシア人の美しさの源
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ニーチェは神を殺し、最終的には自らがディオニュソスの神となりました。『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウも神を殺し、自ら神となりました。
「ディオニュソスの神」は力への意志が盛んな神であり、その対極には「デカダンスの神」がいます。この神は力への意志が衰えた存在です。
自ら神となるという「狂気」の沙汰は、力への意志、つまりあふれるばかりの力、健康、充実から生じます。
力への意志が衰えた者は「幸福」を求め、力への意志が盛んな者は、その「力の過剰」から「悲劇」「破滅」「没落」を求めるのです。その先に「神(超人)」が存在します。
「神(超人)」になるためには、「力への意志」と「抵抗物」が必要不可欠です。
あふれるばかりの力、健康、充実を持った美しいギリシア人が超人のモデルであり、力への意志が衰え、退廃していく人間ほど醜いものはないと言われています。
「幸福」ではなく「障害」を求め、力を増大させ、美しい存在を目指すのです。
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悲劇はいったい何に由来することになるのか?おそらくは快感に、力に、あふれるばかりの健康に、あまりにも大きな充実に由来することになるのであろうか?
生理学的に問うならば、悲劇的および喜劇的な芸術を発生せしめた狂気、すなわちディオニュソス的な狂気はいかなる意味を持つのか?
どうだろう?おそらく狂気はかならずしも退化・衰亡・末期的文化の徴候だとはかぎらないのではなかろうか?
どうだろう、ギリシア人がほかならぬこの民族の青春の豊かさのなかで、悲劇への意志を持ち、悲観論者だったとしたら?
そして、プラトンの用語を使えば、ギリシア全土に最大の祝福をもたらしたものはほかならぬ狂気だったとしたら?
ニーチェ「序言・自己批判の試み」『悲劇の誕生』浅井真男訳、『ニーチェ全集 第一巻』白水社、pp.16-17.
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古代ギリシアの古層にあって、いまだ豊かで溢れんばかりであったその本能を理解するために、ディオニュソスという名をもつあの不可思議な現象を真剣に取り上げたのは、私が最初であった。それはただ力の過剰からのみ明らかにされる。
ニーチェ『偶像の黄昏』村井則夫訳、河出文庫、p.201.
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この意志、力への意志が衰えるところでは、きまってデカダンスが生じる。デカダンスの神、その男性的な肉体と道徳を切除された神は、今度は善人どもの神となる。その崇拝が「道徳」と呼ばれる!
ニーチェ『ニーチェ全集 第十二巻』氷上英廣訳、白水社、p.20.
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私はギリシア人における最も強い本能、力への意志を見た。(中略)
彼らはまた祝祭や芸術によって、自己自身を一層強く、美しく、ますます完全なものとして感じること以外の何物をも欲していなかった。
──それは自己賛美の手段、力への意志の昂進手段である。
ニーチェ『ニーチェ全集 第十二巻』氷上英廣訳、白水社、pp.156-157.
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人間が意志するもの、生きている有機体のいかなる最小部分にせよ意志しているもの、それは力の増大である。それを求める努力に、快も不快も従ってくる。
かの意志から、人間は抵抗物を求める。自己に対立するものを必要とする。
彼の力への意志の妨害としての不快は、それゆえ、一つのノーマルな事実であり、あらゆる有機的な現象のノーマルな成分である。
人間はそれを回避しない。彼はむしろそれをたえず必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快の感情、あらゆる出来事は、克服された抵抗を前提とするのである。
ニーチェ『ニーチェ全集 第十一巻』氷上英廣訳、白水社、p.196.
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障害はこの力への意志の興奮剤なのである。
ニーチェ『ニーチェ全集 第十二巻』氷上英廣訳、白水社、p.197.
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美しいものなど何ひとつ存在しない。ただ人間だけが美しいのだ。あらゆる美学はこうした素朴な見解にもとづいている。それこそが美学の第一の真理なのである。
ただちに第二の真理を付け加えるなら、退廃していく人間ほど醜いものはない、というのがそれである。
ニーチェ『偶像の黄昏』村井則夫訳、河出文庫、p.135.