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独我論と唯心論の融合──独心論の世界観

独心論
独心論とは、独我論の「独」と唯心論の「心」を組み合わせた造語である。私はその独心論者である。

私の独心論は、極端な独我論(他者は存在しない)と、極端な唯心論(世界は幻想である)を融合させたものである。

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独心論の核心
世界の中に私が存在するのではなく、私の意識の中に世界が存在する。

これは、ハイデガーが説く被投性や世界内存在とは真逆の発想である。

私が偶然にこの世界に生まれ落ちたのではなく、この世界が偶然に私から生まれたのである。

神秘学に関心をもつことができるかできないかは、ひたすら、ビッグバンとは反対に、内なる世界が、宇宙の初めに、外なる世界を生み出した、という観点が肯定できるかできないかにかかっています。

高橋巖『神秘学入門』(筑摩書房)p75

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ホームとアウェイ
この世界は、私の意識の中にあるため、世界全体がホームであり、アウェイは存在しない。

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外の世界
「存在するとは知覚されることである」
バークリー

「神が一瞬でも目を離せば、被造物はただちに無となる」
エックハルト

ドアを開けるまでは、外の世界は存在しない。ドアを開けると外の世界が生成され、ドアを閉めると外の世界は消滅する。

あらゆる被造物は一つの純粋な無である。存在を持たないものは何であれ無である。あらゆる被造物は存在を持たない。その存在は神の現前にかかって漂っているからである。神が一瞬でもあらゆる被造物から転じるなら、それらは無となるだろう。

松井吉康『神の放下、神の突破 エックハルト理解への道』p.16

エックハルトは、「被造物は、それ自身では無である」と言うが、それというのも、その存在は、被造物自身にではなく、神に属すると考えるからなのである。「存在そのものである神から存在が与えられ続ける」という在り方でのみ被造物は存在する、というのが、「存在が被造物においてどのようにあるか」という問いに対する答えである。

松井吉康『神の放下、神の突破 エックハルト理解への道』p.32

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モナドと独心論
‪モナドには窓はないが、ドアはある。‬ドアを開けるまで、他のモナドは存在しない。‬ドアを開けた時に出現するモナドも幻想であるため、
他のモナドとの予定調和は存在しない。‬

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モナドの中
ドアを開けても、そこはモナドの中である。世界の中に私が生まれたのではなく、私の意識の中に世界が生まれたからである。‪モナドの中は快適な空間である。‬

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モナドと意識
「モナドには窓がない」とは、モナドには外側の世界が存在しないという意味でもある。
モナドは宇宙の最小単位ではなく、無限の空間である。モナドは「意識」と言い換えることもできる。

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すべての根源
他者や世界は「存在」するが、私の意識から生まれた幻想である。私が唯一の「実在」であり、すべての根源である。

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唯一の実在に会う方法
唯一の実在に会う方法は、鏡を見ることである。鏡に映った存在こそが、唯一の実在である。バチカンやメッカ、伊勢神宮に祀られている存在も、ブラフマンやスピノザの神も唯一の実在ではない。

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神の要請
私が唯一の実在であるのだから、バークリーやシャンカラの唯心論のように、神やブラフマンを要請する必要はない。

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神秘的合一
私が唯一の実在であるのだから、神との神秘的合一や梵我一如を追求する必要もない。

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自分自身を信じよ
ニーチェと臨済は、「自分自身を信じよ」と説いている。これこそが覚りの大前提である。哲学書や宗教書を何千冊読んだところで、覚りに至ることはできない。

まず大胆に自分自身を信ずるがよい──おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに噓になる。

『ツァラトゥストラ』「無垢な認識」

今わしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである

『臨済録』「示衆」

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天国や地獄は存在しない
唯一の実在の意識の中に世界が存在する。それ以外の場所は存在しない。天界、地上界、地獄界のような三層構造の世界は存在しない。

法性の仏身とか、法性の仏国土というのも、それは明らかに仮に措定された理念であり、それに依拠した世界に過ぎないのだ。

『臨済録』「示衆」

もしお前が一切のものは生起することなく、心も幻のように空であり、この世界には塵ひとかけらのものもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。

『臨済録』「示衆」

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無意味な存在
この世界は、唯一の実在が意志や目的をもって創造したものではなく、唯一の実在から自然発生的に生じたものである。そのため、この世界には意味や目的を持たない存在が数多くある。したがって、無意味な存在に対して、「この存在に何の意味があるのか?」と無理に考えても答えは得られない。

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自然発想的に生まれた世界
この世界は、唯一の実在が意志や目的をもって創造したものではなく、唯一の実在から自然発生的に生じたものである。そのため、唯一の実在はこの世界について全知ではなく、この世界に何が生まれ、どのように展開するのかを関知していない

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世界に無関心
この世界は、唯一の実在が意志や目的をもって創造したものではないため、唯一の実在はこの世界に無関心ではないが、それほど興味を抱いているわけでもない

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実体を作り出す能力
夢の世界で他者に触れた時、その触り心地は現実の世界で他者に触れた時と全く同じである。意識が作り出した幻想とはいえ、その触り心地は実体として完璧である。この現実の世界もまた、意識が作り出した世界である。意識には実体を作り出す能力があるが、その「実体」もまた幻想であり、「実在」はしない。

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存在と実在
幻想も実体を持って「存在」するが、「実在」はしない。

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仮現論(ドケティズム)
仮現論者たちは、「イエス・キリストの肉体は実際には存在せず、肉体を持たない霊的な存在であった」と主張した。独心論では、肉体は存在するが、実在はしないと考える。「さわれる幻想」として、肉体(実体)は存在する。

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二つの性質から成る唯一の実在
唯一の実在は単一の性質ではなく、陰陽思想における太極のように、あるいはキリスト教神学における二性一人格のように、二つの性質(思考と感情)の不可分な関係から成り立っている。

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動的で変化する存在
唯一の実在は、正反対の性質の組み合わせで成り立っている。この組み合わせにより、動きと変化が生じる。唯一の実在は、不動不変の存在ではなく、動的で変化し続ける存在である。

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孤独ではない唯一の実在
唯一の実在の二つの性質から、ロゴスとソフィアという分身が生まれた。ロゴスとソフィアは、ツァラトゥストラの真の友である鷲と蛇のように、常に寄り添う存在である。したがって、唯一の実在は孤独ではない。

これはわたしの生き物たちだ」とツァラトゥストラは言い、心から喜んだ。「太陽のもとにおける最も誇り高い生き物と太陽のもとにおける最も賢い生き物」

ニーチェ『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説10」

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以心伝心
唯一の実在が本当に心を通わせることができるのは、ロゴスとソフィアだけである。彼らとは波長や周波数、フィーリングが一致し、完全にシンクロしている。

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三位一体の関係
唯一の実在、ロゴス、そしてソフィアは、三位一体の関係であり、調和と結合を象徴する三つ巴の関係にある。

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結合による快楽
唯一の実在は、ロゴスとソフィアとの「結合」によって喜びと快楽を得ている。この「結合」とは、食べることである。食べることは官能的な行為である。ロゴスとソフィアは乳、蜜、果物、そして柔らかい肉でできている。

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ロゴスとソフィアの性質
ロゴスは「思考と感覚」の性質を持つ存在であり、ソフィアは「感情と直感」の性質を持つ存在である。

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四大元素の起源と性質
ロゴスの性質である「思考と感覚」から四大元素の「風と土」が生まれ、ソフィアの性質である「感情と直感」から四大元素の「水と火」が生まれた。

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世界の素材としての四大元素
世界の素材は、ロゴスとソフィアから生まれた四大元素であり、それらの組み合わせによって様々なものが生じる。

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四大元素と四つの性格
人間も四大元素で構成されている。そのため、思考・感覚・感情・直感の四つの性格に分類できる。

風の素材が90%を占める極端に思考に偏ったタイプの人間もいれば、水の素材が90%を占める極端に感情に偏ったタイプの人間もいる。個性は、素材の割合によって決まる。

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哲学的ゾンビ
人間には個性はあるものの、「我思う」ことができず、自由意志も持たない。ゲームのキャラクターのように、備わった個性に応じた言葉しか話せず、その個性に応じた行動しか取れない。

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神の形
人間は唯一の実在と「かたち」だけが似ているにすぎず、主観的な意識や感覚(クオリア)を持たない存在であるため、真の意味で人間と唯一の実在が会話することはできない。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

『旧約聖書』創世記1:27

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唯一の実在の啓示
人間は唯一の実在の言葉を理解することができない。したがって、唯一の実在が人間に語りかけたり、啓示を与えたりしても意味がない。

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キャラクターと作家の関係
人間は意識のない存在であるため、唯一の実在を信仰することは不可能である。この関係は、小説のキャラクターと作家の関係に似ている。小説のキャラクターは、作者を知ることも、理解することもできない。

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夢の中の会話
夢の中に登場する他者には、思考も自由意志もクオリアも存在しない。彼らは考えて話しているわけではない。彼らとの会話は、実際には会話とは呼べない。独心論においては、現実も幻想であるため、他者との会話も実際には会話とは言えない。独心論では、そもそも会話というものが存在しない。

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他者の評価
独心論者は、他者と比較して羨むことや妬むこと、あるいは他者からどう思われるかを気にすることがない。好かれようが嫌われようが、それを気に留めることはない。なぜなら、他者は実在しないからである。独心論者は人間関係で悩むことがない。

諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。

『臨済録』「示衆」

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善人も悪人も存在しない
人間は意識のない存在であるため、人間の中に善悪は存在しない。

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陰謀論
陰謀は存在しない。意識のない存在である人間に陰謀を企てることはできない。

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中身が入れ替わる
手元にあるこの本は、明日には内容が変わっているかもしれない。Aさんも、明日には中身が入れ替わっているかもしれない。この幻想の世界では、外見はそのままで、中身だけが変わることが起こり得る。

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映画とフィクション
映画の登場人物が失恋したり、病気になったり、大儲けしたり、破産したりしても、それはすべてフィクションに過ぎない。同様に、この世界も幻想であるゆえに、すべての出来事はフィクションに過ぎない。

諸君、勘ちがいしてはいけない。世間のものも超世間のものも、すべて実体はなく、また生起するはずのものでもない。ただ仮の名があるだけだ。しかもその仮の名も空である。ところが君たちはひたすらその無意味な空名を実在と思いこむ。

『臨済録』「示衆」

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映画の主人公
実在しない他者から認められる(お墨付きをもらう)必要はない。本来の自己である「主人公(唯一の実在)」を見い出し、人生という映画の「主人公」として生きることが重要である。全ての他者は脇役であり、世界も映画の舞台とセットに過ぎない

諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作りだ。

『臨済録』「示衆」

諸君、時のたつのは惜しい。それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる〕善知識を求めて臆測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、諸君。君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ。

『臨済録』「示衆」

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五分前世界創造説
夢は、寝ている時に意識によって即興で創造される。夢の世界の舞台設定や登場人物のキャラクター、さらには会話までもが即興で作り出される。この現実と思い込んでいる世界も、意識によって即興で創造されているのである。

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歴史はフィクション
歴史はファンタジーである。ビッグバンも、恐竜も、イエス・キリストも存在しなかった。恐竜の化石や古代の記録は、歴史を証明するものではなく、ファンタジーの世界を飾る一つの演出に過ぎない。夢の世界に歴史が存在しないように、この世界にも歴史は存在しない。宇宙史も、地球史も、人類史もフィクションである。そして、私の記憶もまたフィクションである。

諸君、真の仏に形はなく、真の法に相(すがた)はない。しかるに君たちはひたすらまぼろしのようなものについて、あれこれと思い描いている。だから、たとえ求め得たとしても、そんなものは狐狸の変化(へんげ)のようなもので、断じて真の仏ではない。そんなのは外道の見方だ。

『臨済録』「示衆」

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記憶と証拠
寝ている時に見る夢の世界と同じように、過去や歴史は存在しない。直線的な歴史も、円環的な歴史も存在しない。過去の記憶は、過去の証拠にはならない。

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過去にとらわれない
夢には連続性がない。記憶も残らない。現実も幻想であり、過去は存在せず、連続性のある記憶も幻想にすぎない。それゆえ、過去を後悔することも、過去にとらわれることもない。

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進化は存在しない
象の鼻やキリンの首が長いことには特別な理由は存在しない。それらは進化の過程で短いものが長くなったのではなく、理由なく初めからその形として唯一の実在から生まれたのである。また、「鶏が先か卵が先か」という問いの答えは、「鶏が先」でも「卵が先」でもどちらでもよい。

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物理法則は存在しない
アニメの世界では魔法が使え、夢の中では空を飛べる。イメージの中では、どんなこともできる。夢の中も、アニメの世界も、イメージの中も、そしてこの世界も、すべて意識から生まれた幻想であり、違いは存在しない。物理法則は幻想に過ぎない。

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因果関係や確率は存在しない
法則や因果関係、確率、再現性は幻想にすぎない。努力を重ねても、行動しても、アファメーションをしても、ポジティブな思考を持っても、周波数を高めても、願望が実現するとは限らない。また、方法を変えたり、テクニックを洗練させたりしても、成功が約束されるわけではない。思考や行動と成果は必ずしも比例しない

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いきさつ
この世界は、私の意識から生まれた幻想の世界であり、お金を含むすべての存在は私の意識から生じる。仕事、ビジネス、投資、ギャンブル、相続といった「いきさつ」によってお金がもたらされるわけではない。

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ヌミノーゼの神
唯一の実在は、穏やかで冷静、かつ柔軟な存在である。ルドルフ・オットーが述べるヌミノーゼの神(怒りを抱く神、魅惑する神)のような低劣な存在は、神とは言えない。

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残酷な存在
聖書の神は、洪水によって世界を滅ぼし、火によってソドムとゴモラを滅ぼした。また、最後の審判において多くの人間を永遠の地獄へ突き落とす。このような残酷な存在は、神とは言えない。

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悪魔的な存在
グノーシス主義者は、旧約聖書の神ヤハウェをデミウルゴスと呼び、悪魔的であり、低次元の存在であると解釈した。ヤハウェが怒りや嫉妬、復讐心を持つ存在である以上、そのように見なされるのは当然である。

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神義論
「神は正義であり愛であるはずなのに、何故この世界に悪や苦しみ、不条理が存在するのか?」という難問が、キリスト教には存在する。それを神義論と呼ぶが、その難問に対する答えは、「この世界は幻想であるため、悪や苦しみ、不条理は実際には存在しない」となる。

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四苦八苦からの解放
仏教用語に「四苦八苦」という言葉がある。これは、生老病死の四つの苦しみに、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四つの苦しみを加えたものである。独心論の立場では、他者や世界は幻想であるため、苦しみそのものが存在しない。

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自動生成される夢と現実
独心論において、現実は夢と同様に幻想である。また、夢と同じように勝手に生成され、自分の思い通りにはならない。現実においても悪夢のような苦しみを味わうこともあるが、それもまた幻想であることを思い出すことで、悪夢から目が覚めるように苦しみから抜け出すことができる。

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安全な世界
人生は、安全にできている。夢の中で死んでも、目が覚めれば実際には死んでいないのと同じように。だから何も心配する必要はない。

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夢と現実
夢の中での気温や時間は、実際には幻想に過ぎない。この現実世界における気温や時間もまた幻想に過ぎない。

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お金の心配は必要ない
散財しても節約しても、手元に残るお金は不思議と変わらない。数字は幻想なのだから、当然と言えば当然だ。

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私が欲したから
人生において、「なぜこのようなことが起こるのか?」という疑問への答えは、「私が欲したから」になる。痛みも、苦しみも、不幸も、すべて含めて「私が欲したから」起こるのである。

過去に存在したものたちを救済し、いっさいの「そうであった」を「わたしはそう欲したのだ」に造り変えること──これこそはじめて救済の名にあたいしよう。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』「救済」

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苦痛の意味
ニーチェにとって、苦痛や不幸、不条理や理不尽な出来事は、自らを「超人」へと変容させるために存在するものである。また、彼のあふれるほどの力の充実が、自ら進んで苦難を求めさせたのである。

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運命
未来は決定しておらず、運命は存在しない。しかし、すべてが偶然というわけでもない。

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特別な意味
「こんな偶然はあり得ない」という出来事には、特別な意味が隠されている。

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動くべき時
チャンスが訪れ、サインも出ているのなら、それを見送ってはいけない。偶然が重なった場合、それは偶然ではないことの証拠である。

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調和の神
唯一の実在は、調和の神でもある。神があらかじめ計画を立てることをしなくても、世界は自然と調和する。それは、神自身が調和そのものであるため、計画を立てずとも物事がうまく整うのである。予定調和の神は計画や設定を行うが、その必要はない。神の性質がそのまま世界に反映されるからである。

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思い通りにする方法
夢の世界で思い通りにできないように、現実世界も思い通りにはできない。ただし、唯一の実在と一体化しているときに限り、思い通りにすることが可能である。一体化とは、自分とは異なる存在との神秘的な合一ではなく、自分が唯一の実在、つまり幻想の世界の創造主であることを自覚することである。

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永遠無限の存在
唯一の実在は永遠かつ無限の存在である。

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優雅に
永遠の時間と無限の空間の中で、穏やかに、落ち着いて、優雅に生きる。

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風のような存在
世界が自己の意識から生まれた幻想であることを覚ると、目的や計画、結果にとらわれなくなる。どこから来て、どこへ行くのか分からない風のような、自由な存在となる。

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。

ヨハネによる福音書3:8(口語訳)

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蝶のように自由に
夢も現実も、共に幻想である。ただ蝶のように、何ものにも束縛されることなく自由に生きるだけである。

むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきってのびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが 、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろ。こうした移行を物化 (すなわち万物の変化)と名づけるのだ。

『荘子』「斉物論篇」

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独心論の心理療法への応用
夢の中で恐怖や痛みを感じた際に、「これは夢だ」と気づくことで、その恐怖や痛みが和らぐことがある。

同様に、現実で恐怖や痛みを感じたとき、「これは意識が作り出した幻想だ」と考えることで、それらが軽減される場合もある。

「他者は存在しない」「世界は幻想である」という独心論の世界観は、心理療法として応用することで恐怖や痛みを和らげる効果が期待できる。理論的に多くの批判点があるとしても、道具として利用することは可能である。

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もう一つのリアリティ
錬金術師は二重の見当識を持っていた。一方は現実のリアリティであり、もう一方はイマジネーションのリアリティである。二重見当識とは、妄想などによって歪められた見当識を持ちながら、正しい現実的な見当識が併存している状態を指すものである。

彼らが重視したのはイマジネーションのリアリティであった。イマジネーションのリアリティは、彼らにとって現実のリアリティと並び立つ、もう一つのリアリティなのである。

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独我論(Solipsism)
唯心論(Idealism)
独心論(Solidealism)
独心論者(Solidealist)

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