本が好きなのは②
本が好きなのは、他が苦手だからである。
一つは食べること。もうひとつはしゃべること。
食べるのはれっきとした理由がある。
うまれつき脱腸だったのだ。
しょっちゅう腹痛に悩まされていたら食べるどころではない。
自分の子どもの頃に問うことができないので分からないが、食べた後に腹痛なんてこともあったかもしれない。
そんな訳で、小さい頃からとにかく食物を摂取することが苦手だった。
メンタル的にも食事が苦手な状況は幼稚園で現れた。
人の前で食べようとすると、のどが熱く詰まり閉じてしまう。
頭痛も起こる。そのうち吐き気を催す。
一口もお弁当に手をつけられないと、先生に怒られる。
そのうち職員室に連れられて、園長と真向かいで食べさせれらたが、そんなのトラウマにしかならなかった。
毎日泣きながら、母が作ってくれた小さな小さなおにぎりを一つ飲み込んでいた。
社会性不安障害に起因する食事の苦手意識は、20代半ばになって抗うつ剤を飲み始めるまで続いた。
食べ物は人を幸せな気持ちにさせる。ほっとできる。
世の中の常識かもしれないが、私は面と向かって言われると苦しくなる。
もう一つ、しゃべること。
何せ引きこもり幼児。人と接すれば必ずいじめられ、両親もネグレクトもしくは干渉するときは怒る時のみという状態で、話すことに楽しみはとても感じられなかった。
いまだに役割を持った対応は出来ても、悩みを傾聴することはできても、雑談は苦手だ。
コミュニケーションのためのコミュニケーション、それに何の意味があるのか。
お話で安心できる、楽しい気持ちになれる。
そういう人に限って、本当に聞いて欲しい話をすると逃げていく。
それでは、何のためのコミュニケーションなのか。
私はどうしても心のエアポケットに入ってしまうことがあって、溢れてどうにもならない気持ちを誰かに聞いて欲しくなる。
自分の機嫌は自分で取るのが正しいのかもしれないが、人生運命というか、どうにもならない出来事が起こる。
そんなときに支えあいの貸し借りをできれば私は嬉しい。
(ただ、それを人に押しつけないようにはしている)
脱線してしまったが、そんな背景があり、目的もなくただ話すというのが私はどうも苦手なのだ。
食べるのも、話すのも、人に関わるのもダメ。
そうすると自ずと一人でじっとして遊べるものに限られてくる。
本は、体の痛みを伴わない。人とも接しない。
だがその紙の奥には広大な世界が広がっていて、頭と心はじんわり温かくなる。攻撃はされない。万が一怖い本にあたったら、本を閉じるだけ。
自分で決めることができる。
そして、物語が面白ければ、どこまでも没入できる。
イメージの世界に逃げ込むことができるのだ。
それが私が本が好きな原点だ。
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