【アドラー心理学】人が"所属"を求めて行動する目的とは
アドラー心理学によると人は所属をもとめてライフスタイルを形成したり、行動をします。
ところが「共同体に対する所属」をする目的について「共同体に所属するため」という巡回したロジックしか出てきません。ここに対して一定の解決をすることが、実は境界性人格障害のような「他者」との関わりに生きづらさを感じている人の治療に役に立つかも知れません。
まずはレヴィナスの引用からスタートします
語るとは、それを他者を知ると同時に自らを他者に知らしめることである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される。他者はなざされるだけでなく、その助力を求めて呼び寄せされる。文法用語を用いて言えば、他者は明格においてでなはなく、呼格において出現する。私は単に他者が私にとって何であるかだけではなく、それと同時に、いやそれより以前に、私が他者にとって何であるのかを思惟する。他者にある概念をあてはめたり、他者をあれこれの名称で名ざすとき、私はすでに他者を呼び求めているのである。わたしは知るだけではなく、関係する。(エマニュエル・レヴィナス「困難な自由」)
レヴィナスは「他者とは何か?」に対していきなり「そういう問いを発するあたなは誰か?」と反論していきます。(内田樹「他者と死者」P28)ここでわかることは「他者」よりも先に「主体」の存在を既定していることです。内田先生はここで、「主体」についての定義についてレヴィナスがどう考えているか書いています。しかしここでは「他者」を定義するということは「主体」である私よりも先に存在しているかもしれないということを認識しすることです。
冒頭にも書きましたが、人は所属を求めて行動します。ということは、所属するということは「他者」に対して関係性を作ることです。しかし「他者」を定義することで常に「主体」である私が存在してくるのです。結論を書きましょう。所属をする目的とは、「先にいる『他者』を通して主体である私を既定するため」と言えます。自分自身を既定するために人は所属をするのです。そのための所属のための手段がライフスタイルであるというアドラーの発言とも整合性がとれます。
これが何故境界性人格障害の治療に役に立つののでしょうか。所属の危機が訪れると、他者を危険なものと定義をし、主体である私を無能力の人間と考えることで、共同体に対して破壊的な行為をとるからです。もしも、所属の危機が訪れた瞬間に、他者が安全で、私が能力があるとおもえれば、所属の危機自体がなくなるのかもしれません。
まだまだふんわりとした感じです。しかし折を見て議論をしていければとおもいます。
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