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「アドラー心理学会、さよーなら、またいつか!」

内田樹先生と石川康宏先生の往復書簡で進む「若者よ、マルクスを読もう」の冒頭で、マルクスの知見はすでに直接的には役立たないことはソ連の崩壊で自明となってしまったが、マルクスの世界の切り取り方はまだまだ有効だといえる、という趣旨の話がかいてあった。

内田先生は、学生運動の時に革マル派と呼ばれている人たちがマルクスをまったくよんでないことを書いていらしゃっしゃってさもありなんとかそゆ話だけど。そもそもマルクス主義の人ってどういうことかということについて、内田先生が語るエマニュエル・レヴィナスの個人的な定義が刺さるので引用してみる。

 私の師匠であるエマニュエル・レヴィナスはかつて「私はマルクシスト(marxiste)ではなく、マルクシアン(marxien)である」と語ったことがある。「それはどういう意味ですか?」と訊ねると、レヴィナス先生は「マルクスの思想をマルクスの用語で語るのが『マルクシスト』であり、マルクスの思想を自分の言葉で語るのが『マルクシアン』だ」という個人的な定義を教えてくれた。

https://book.asahi.com/jinbun/article/13491528

ここで大事なことは、知見そのものよりも世界の切り取り方について学ぶことと、その思想に基づいて生きるというのはまったく別な話であるという話である。特にその思想をもって思想を語るということは、その思想の隙間にある何かに気がつけなる。そしてゲーテルの「不完全性定理」によると「その系の言葉ではその系自体の証明はできなくなる」ということである。だから、思想の内側にいる限り、その思想のロジックについては語ることが原理的に不可能になる。

だからこそ研究をするときは、その系にもっとも近接をするが中に入ることはできなくなる。語る言葉はその外から用いて語らなければ、同じことの繰り返し、つまりトートロジーにしかすぎなくなる。

先日、アドラー心理学会の主催する講習会(家族コンサルタントの資格講習)に参加した。別に私はアドラー心理学をつかって生きるつもりもないし、アドラー心理学は研究としては興味深いが、自分の思想として暮らす気はまったくない。むしろ嫌であるというレベルである。

先ほどのマルクシアン/マルクシストの定義を借りるなら、アドラー心理学会はアドレリアンの定義しかしてない。つまり、アドラー心理学の言葉をアドラーの言葉をつかって生きる人々のことしか存在を認めていない。ここでは、「アドラー心理学を自分の言葉をつかって語る人」のことを「アドラシスト」と呼ぶことにしよう。

話を戻すと、セミナーの最後で「アドラー心理学を勉強するということは、アドラー心理学として生きる、つまりアドレリアンとして生きることです」といった。正直頭が痛いのと通り越して吐き気がした。アドラー心理学会は公式に「アドラー心理学を研究とできない」といったのである。研究者の立場からみたら最悪ともいえる発言だとおもう。

それと同時に、アドレリアンで生きると決めた人たちが号泣したのを見て、ドン引いたのもある。それは自分のセンター部分を最も容易く他者の言葉をそのまま入れることがどんだけ惨劇を引き起こしたのか(ホロコーストしかり、全共闘でもいいんだけど)を知ってるのかとおもう。宗教のマインドコントロールとなにが違うのか私にはわからない。他人と調和的で平和的な思想をもった心理学だから許されるは違うと思う。

少し込み入ったアドラー心理学の話になるからわからない人は読み飛ばしても結構です。すべてを「共同体感覚」をベースにするのはいいけど、「他人を出し抜いて自分が利益を独占する」ことが自由資本主義である以上、共同体感覚をもつということはその輪の中でしか通じない話になってしまう。だから、私は共同体感覚には理解をするが、同意はしない。ゲスい言葉でいえば「お友達同士でかってにやってろ」です。上品にいえば「お仲間で仲良くしてね!でもそこから出てきたら殺されても文句言うなよ」ですね。どっちしても進撃の巨人のでいえば、ウォールマリアの中だけの話ということです。

というところで、思いっきりお手洗いにいって嘔吐してスッキリしたところで、アドラー心理学会とその関連からは「さよーなら、またいつか!」をすることにした。私の人生の望みは「世界の客観的傍観者」になることで、それはすべにおいて、「〜〜アン」  ではなく「〜〜シスト」でいることを望むということである。

アドラーの言葉(や弟子の言葉で)でアドラーを語る限り、結局アドラーの原理については原理だから触れないにしかならない。でも基本原理である「なぜ人々は共同体感覚をもつべきなのか」「なぜ原因論ではなく目的論を採用するのか。目的論のほうが説明をしやすいから以外の理由」とか語るためにはどうしても、アドラシストになる必要がある。

例え話で人にいったのは「イスラム教の研究をする限りイスラム教徒にならないといけないのはおかしいのではないか」である。逆にタルムードはユダヤ教徒であることが前提であるので、研究者と実践者が綺麗に分かれているともいえる。

アドラー心理学は「使用の心理学」ともいわれてきたので、実践という前提が原理としてある。今回の講座も私は「別にプログラムで親子関係がうまくいくかどうか」ということやコンサルティーに興味は一切なくて、アドラーの言葉をどうような形でプログラムに落としたのかにしか興味がなかった。私は、仕事でコンサルタントとして他人に関わる以上、他人と壁を絶対につくらないといけないのである。それは責任を取れないからこそ取るための覚悟として、壁が必要だからである。(たぶんアドラーカウンセラーの人たちは私のこのへんを壊しにかかるとおもうけど、当方に迎撃の準備ありです、と先に宣言しておく。そのくらい手の内は読める。だいたいべき、とか、であるとか捕まえて、思い込みですねーとするけどまあそんなもんだね。)

そう生きたい人を止める権利も義務も私にはない。だからこそ好きにすればいい。でも私はそこにはいたくない。その内部の言葉で内部を語ることは「禁止事項」だから。


アドラー心理学会が、アドラー心理学を勉強することがアドレリアンとして生きることとを求める限り「アドラー心理学会、さよーなら、またいつか!」

わたしは一生アドレリアンにはなりません。っていうかそんな生き方に興味がない笑

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