「友達は多い方が良い」に惑わされる様子

 人と関わらなければ孤独を感じなかったのに、人と関われば関わるほど孤独を感じます。

社交的な人っていますよね、社交的な人を見ると私は孤独を感じます。なぜなら、その人は自分以外に関わる人がいるからです。多くの人に求められる姿を見れば、その人が価値のある人だと錯覚してしまいます。これはきっとほとんどの人が理解できる感覚だと思います。世間では「友達が多ければ良いという意見が多い」、と言いますから。

社交的な人と関われば関わるほど私も社交的になり人脈を築き自分の存在価値を上げなければならないように思っていました。その時は、自分からお誘いをたくさんしていました。実際に、社交的な人だと評価されたこともあります。

他にも、「一生の関係」なんてないと思えば思うほど、それを追い求めるように数うちゃ当たる方式で他者と多くの交友関係を築き、その中の誰かが長く付き合う関係となればいいなと保険をかけていました。
他人から見た時に、孤独なことが哀れなことだと思うとどうしてでも見栄を張りたくなり交友関係を築きたくなるものでした。

そうやって社交的に振る舞うこともできる人間ではありますが、社交的に振る舞えば振る舞うほど孤独を感じたり人間関係での葛藤があったりしました。他の社交的なような人を見ると自分は価値のない人間に思えてしまう時期もありました。


コロナになってからはそういった葛藤と少しは縁が無くなり気が楽になりました。「自分らしくいられる環境」「自分らしくいられる人」「自分が葛藤を覚えない相手」が私にとってベストなことに気づきました。

自分が自分らしくいるには私には孤独が必要です。自分らしくいられている実感があれば他人は割とどうでもいいと思えるようになりたいです。自分が孤独なほうが良いのか社交的なほうがあっているのかは知りませんが、どちらにしても「自分らしくいられない」ことが問題ですので、どんな環境であっても「自分らしく」いられれば問題ないんですよね。

孤独なことは哀れなことではないですが、私もそういった人を同情の目で見てしまうこともありました。交友関係は広い方がいいというそんな価値観が少しは変わっていけばいいですね。
交友関係は広い方が良いという意見は、きっと人間が群れで行動して生き延びる術があるから、協調性がある人の方が良いと判断する要因があるんでしょうね。

以前の自分のように、孤独を恐れて交友関係を築いている人や孤独な人を哀れな目線で同情する人の価値観もあって良いと思うけど、その価値観だけでしか見ることができないのも視野が狭いなと思います。他人もそんなに他人のこと気にしてないだろうし。だから自分も他人も孤独であろうがなかろうがどうでもいいでしょう。

 ありがとうございました。

 (同情という言葉で思ったのですが、同情って人のためにしてるわけじゃないしその人に失礼だなあと思います。同情されたい人もいるだろうけど、哀れに思われ自分よりも下に思われるのはなんだか嫌な気持ちですね。同情というのは自分の価値観で他人を見下すもの(偏見強め)ですから、その同情されている側にとっては同情されるようなことではないことでもあると思うのに。)

 冬譜

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