火のないところにでも煙は立つ。
火のないところに煙は立たず。とは言いますが、火が起きる前には煙が立つもの。それは誰しもがいえるかもしれません。
「周囲が騒ぐことで、火は燃えあがる。」
そんな話。
嫌なニュースが多くなってきている。
最近では、いろいろと嫌なニュースが増えてきています。ウィルスの影響で犯人捜しをしたり、自分より優れている人をあらさがししたりと、財布は豊かになっても心が貧しい人が増えてきています。
相手の欠点を調べて、相手より自分がどれくらい優れているかということを探し、ひとというものは平常心を保とうとします。自分はほかの人よりも優れているんだと、これは人の性なのかもしれません。
全くこれと同じことが、危機的な状況でも訪れます。それは9年前に起きたことです。ひとは、命の危機が身に迫ると、自分は正常で、ほかが異常なんだと考えてしまうことになります。
それは‘正常性バイアス’で、一時期話題になった単語でもあります。しかし、月日がうつせみに流れることで、ひとの記憶は薄れていくものです。そして、いつしかその‘正常性バイアス’が常に発動している状態が普通になってしまうのです。
ひとはそうすることで、平常心を保つことができます。ただ、その平常心を保とうと、あらさがしをした後、欠点を追求して行くうちに周囲を巻き込んでいきます。それは新たな風となり、火をつけるための動力になってしまい、結果炎上することになります。
こうして発生した炎上はうつせみのように流れ、消えていくことになりますが、その延焼している最中は、実につらい時間になってしまいます。それは、火のないところに煙を立てて、火をつけたにほかなりません。
ひとはどうしても‘見比べるもの’
どうしてもひとというものは、他人と自分を見比べ、相手が優れている場所と自分を見比べてを否定し卑下します、それは劣等感や猜疑心を生み、妬み嫉みすら生み出します。そうして、他者を害してまで上に登ろうと、弱肉強食を繰り広げることになります。
まして、仕事などで上下関係の入れ買えが激しいのなら、なおのこと蹴散らせて上えのし上がっていく必要があるかもしれません。それは、まさに弱肉強食そのものです。
このことが極端に出てしまうと、相手が不幸になる方がいいんだと、勝手に解釈をしてしまうことになります。その考えは、いつしか自分の首を真綿で締めることになるのです。うつせみのように回り巡って、いつしか自分が蹴落とされる側になってしまうのです……
他害利己ではなく、自利利他で、財布も心も豊かに
ひとと自分を比べ、自分似ないものを他者に求めてしまうのは、ひとの性であり正常性バイアスにもつながっている。そのどれもが、他害利己の考えとなり厄介になってしまうこともあります。
固定概念にとらわれるのもあれですが、他害利己ではなく、自利利他で財布だけではなく心も豊かにしたいものですね。
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