見出し画像

雑司ヶ谷

-会社員ユキトの場合 2-


「このくらいの修正も正確にできないんじゃ、どの仕事も任せられないんだよね」

目の前の50近いディレクターは、先方からの赤の入った出力紙と、僕が修正をかけたデータの出力を2枚並べて、所々にブルーのマーカーを引きながらその修正ミスの多さを指摘した。

「すみません」
「確認しながら作業してないの?どういうやり方するとここまで間違うのかよくわからないんだけど」
「すみません」
「これじゃあデザイナーどころかオペレーターの仕事にもならないから。ちょっと難しいよ」

事実上のクビ宣告なのだろうか。入社してまだ3ヶ月しか経っていないデザイン会社で、早くも僕は窮地に立たされている。

「気をつけます。一からやり方を見直します」
「先週も同じこと言ってなかった?」

確かに少し前にも、僕の修正した出力紙をチェックしていたディレクターがデスクまでやってきて、苦笑いしながらちょっとこれミス多すぎるよ、どうなってんの。と声をかけてきた記憶はある。
その際僕は、今と同じような返答をしたのだろうか。気をつけます、などと言った記憶はあるが、それ以上の細かい記憶はなかった。

「お見せする前に一度自分で校正して、完璧な状態にしてからお渡しします」
会議室の無機質な黒いテーブルを見つめながら僕が絞り出すように言うと、ディレクターはそもそもそんなのは当たり前のことなんだよな、といった風情で長髪の頭をポリポリとかいた。
「今はちょうどうちもそこまで仕事量は多くないから。次のサイトの再校の修正をやってもらって、それで判断します」

死刑判決は一旦免れたようだ。でも次こそが最高裁だ。そこでヘマをしたら、死刑執行までの道のりを一気に進むことになる。会議室で行われていた弁論尋問からようやく解放された僕は、よろよろと力の入らない膝下を引きずりながらエレベーターホールへ向かった。

そういえば今日はまだ昼飯を食べていないが、特に食欲はない。炭水化物もタンパク質もビタミンも糖分も思い付いた時にしかとらず、コーヒーや水などの水分をメインの燃料に生きているから、こんなに頭がぼんやりとしてしまうのだろうか。

 エレベーターホールにある7階の窓からは、地上にいる人間はちょうど手指の大きさくらいに見える。すぐ下に見える人通りの多い交差点には、平日の昼間とはいえひっきりなしに人々が往来する。その中に不意に短い黒髪にベージュっぽいふわっとした服を着た女性が見えて、心臓が一度大きくドクンと跳ねた。

彼女ではない。身のこなしやまとっている雰囲気を見れば、地上7階からでも判別はつく。それでも彼女のフォーマットに似た人間をちらりと視界に入れただけで、死んでいた心臓が跳ね、そのまま一直線に股間に向かってものすごい勢いで血液が送り込まれていくのを感じた。なんて安直でバカみたいなシステムなんだ。固さのある細身のジーンズの中で、もぞもぞと疼く下半身をどう収めたら良いか、先程までの被告人の立場を忘れて真剣に思案しなければと思った。   

 午後4時の住宅地にある小さな公園は、意外にも人が一人もいない。
前後に揺れるパンダが一匹と、丸いぐるぐる回るコーヒーカップのような遊具、使用禁止になっているブランコ。これしか遊び道具がないので、ここから歩いて5分ほどの、カフェなどが併設するきれいに芝生の引かれた新しく大きな公園に人気を取られてしまっているのだろう。

僕はさりげない感じでその公園の敷地に足を踏み入れると、さりげない感じでそのまま公衆トイレへ足を進める。
この公園へはオフィスから逃避したいときに昼夜を問わず来ることがあるが、たまにタクシーの運転手が使用している以外に、ここのトイレを使っている人間を見たことはない。

小さなトイレなので個室は一つ、立ち便器が2つ。迷わず奥の個室に入り、開けっ放しのドアを閉める。気づけばはあはあと上がっている息を整えることもできないまま、一心不乱にチャックを下げてジーンズを腿のあたりまで下ろす。トランクスにも同時に手をかけたので、垂直に立ち上がったペニスが引っかかり、ぶるんと跳ねるように上下した。

いつもは彼女がすくい上げてくれるしょっぱくて透明な液が、そのつるんとした先端を濡らしている。本当にしょっぱいかどうか初めはわからなかったのだが、ある時彼女がその透明な液を自分の指先につけてそのまま僕の口内へなぶるようにねじ込んだことがあったので、彼女の言う「しょっぱい」が事実であることをその時知った。

恐る恐るギンギンと躍動している自らのペニスを右手で包み込むと、その手をゆっくりと上下に動かしてみる。思わず、ああ、と声を漏らしたくなる。が、次の瞬間、彼女に聞かれたらまずいと身を固くする。彼女には、自分と会うまで一人でするのは禁止だと言われている。
最後にその指令を僕に向かって発してから、彼女は2週間現れなかった。大体どんなに間が空いても1週間なのに、もう今日で15日目だ。別の女性に彼女の幻影を見るまでに、僕の心と体はあっけなく限界を迎えていた。

 盗みや人殺しでもしているかのような罪の意識を右手に、万引きGメンや刑事に張り込まれているような緊張感を背中に感じながら、うう、うう、と小さな呻き声をあげペニスを擦り続ける。

頭の中では、彼女の「どうして欲しいか言いなさい」「お尻の穴が感じるんだね」「泣いたってわからないよ」「なんなの、この汚らしい棒は」などの世にも崇高な言葉がリフレインするとともに、あの遠くを見るように冷たく澄んだ瞳が暗闇の中で浮かび、じっとこちらを見つめている。
「はあ、はあ、ごめんなさい、ごめんなさい」

まるで目の前に彼女がいるかのように涙を浮かべて謝り続ける僕は、その罪を神に向かって懺悔し続ける凶悪犯のようだ。はあ、はあ、はあ。初めは恐る恐る動かしていた右手が、止めることもできずどんどんと加速していく。暗闇の中の彼女は、僕の尻の穴に指を入れたり、穴の周辺を舐め回したり、その後、僕の体に向かってペッと唾を吐いたりする。

散々僕を責めなぶると、その冷たい眼差しのまま、自らのペニスを擦り続けるまぬけな僕の頬を細い手でパァンと打った。3、4回その手が往復した後、彼女はまだ足りないとでもいいたげに僕の首筋を両手で掴み、憎々しげに締め上げながら前後に揺らした。


とてつもない開放感、のちの脱力感とともにハッと気づくと、目の前の個室の扉に、僕のだらしない精液が割れ落ちた生卵の中身のように飛び散っている。粘着質なその白濁した液は、巨大なケーキのチョコレートに描かれた下手くそなホワイトチョコレートのメッセージのようにも見えた。

彼女が執行人なら、僕は喜んで死刑宣告を受け入れるのに。

僕から出た情けなさの塊を眺め、一層ぼんやりとする頭を抱えながら僕は思った。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?