考察 2024.07.30(2)
作品が見られるなら、それは「見られるもの」として武装し防衛する。
それは「絵に描いたようなもの」になるということ。
それは「見られるもの」として観る者を排除する。
空洞の像になる。
沈黙・失語に声を与えない。
「できない」に声を与えられない。
形態を捨てることは原理的に不可能だと。
作者と鑑賞者は無限の距離で隔たっている。
鑑賞者の注意をひき、興味を惹起させるための構成
鑑賞者の気に入ろうとする構図
鑑賞者の体験する連続する現実のなかで、藝術作品が分断できるか。
「見られるもの」は「私を見ろ」と主張する。
狂気は連続した現実のなかで不可視な仕方で体感される。すなわち狂気もまた連続するものだ。
狂気の表現は狂気それ自体ではない、という自己言及による自家撞着に再帰する。
「私はいま黙っている」
形態や像を超越することは誰にも不可能だ。
———孤独。
———妄想。
———失望。
私が「藝術のエントロピー」と呼んだもの。鑑賞者はおろか、作者でさえ知ることができない作品を成立させている要素の領域。
藝術家は自らのエントロピーを減少させることで作家性を作品として具現化するが、0になることはない。すなわち作品に具現化されない作家性がある。これは藝術家の作家性の原形だ。
誰もが藝術のエクセルギーを見ようとし、現に見ていると思っている。作者も。
藝術のエントロピーが最大 = 狂気・失語
奇妙なことに、藝術作品は藝術家の作家性を表現しない。
なぜ藝術家は作品を作るのか
希望は叶わない
藝術のエントロピーが生活のエントロピーに置き換わり、値が最大になるとき、藝術家は消える。
藝術家は自殺するのか
I am silence.
私はいま狂っているよ、ほら。