「天空の城ラピュタ」(1986) 〈映画Vol.2〉
人は、一生の間に何作の映画作品を鑑賞するのだろうか?
私は2024年で46歳になるのだが、いったい今までの人生で何作の映画を鑑賞してきたのか、考えてみるときちんと数えた事がなかった。
観た映画をアプリで記録するようになったのは2011年7月28日からの事で、そのアプリによると私は現在(2024年5月31日)までの約13年間でどうやら1660作を鑑賞しているらしい。
14歳の頃からなんとなく映画をよく観るようになったので、ざっくり計算すると32年間ではおそらく3,000作くらいは観てきたのだろう、と思った。
映画が好きだと人に言うとよく聞かれる質問で、"一番好きな映画は?"というのがある。多くの映画ファンはこれに辟易とさせられるわけだが、私は40歳を超えたあたりでこの質問に対する“答え”、つまり3,000作中の一番を決めた。
それが1986年に公開された宮崎駿監督作「天空の城ラピュタ」である。
宮崎駿監督の伝えたかったもの
映画「天空の城ラピュタ」のもつ魅力は実に様々だ。
類まれな世界観、個性豊かなキャラクター、天才久石譲の音楽、それからアニメーションとしての、目を見張るような職人的技巧などたくさんの魅力があると思うのだが今回noteに記事として残すのなら何について書くべきか、本作のもつ本質的なテーマを突き詰めて考えた。
「天空の城ラピュタ」は徳間書店の出資で設立されたスタジオジブリの一作目の長編アニメ作品で、血湧き肉躍る古典的な活劇を目指して企画された映画である。
さびれかけの鉱山で働く見習い機械工の少年パズーの元にある日、空から少女が降ってくる。
少女の持つ飛行石と伝説の空島「ラピュタ」をめぐる、海賊ドーラ一味と特務機関の男ムスカとの三つ巴の攻防を描いた物語だ。
主人公パズーの住む家はスラッグ渓谷のいちばん高台の、大きな窯のある廃墟に建てられた小屋だ。
元々どういう人物が住んでいた家なのか、最盛期のスラッグ渓谷の名残なのか、映画は多くを語らない。
それどころか主人公であるパズーの父と母のことも、あまり説明はされない。
父は探検家か、あるいはラピュタの研究者だったのだろうか?
空に浮かぶ伝説の城を探し当て、写真にまで残すものの世間に詐欺師呼ばわりされ失意のうちに亡くなってしまったという。
それからパズーは一人で暮らし、鉱山で働き、鳩と共に生活している。
その暮らしの中で、13歳の少年は夢をみる。
"父さんに代わって、自分がラピュタの存在を証明する"
そして自ら飛行機を作っている。きっとそのための勉強もしているに違いない。
しかし夜の空を見上げながら、心のどこかできっとこうも思ってるのではなかろうか。
"もし、ラピュタなんかなかったら?
物語は始まらず、冒険は夢のままだったら?"
この恐ろしい想像はそのまま、暗い映画館でスクリーンを見上げる少年時代の私自身と重なる。
"このまま、ただつまらない毎日が続くのか" と。
だけどみなさんご存知のように、パズーの見上げる暗い空には一つの光がゆっくりと大きくなってくるのが見える。
人だ。
女の子がゆっくりと降りてくる!
そう。物語がはじまるのだ。
私は──いや、きっとこの映画を観た少年少女は誰だって──何度も観返しているのに、初めて観たかのようにワクワクしてしまう。
パズーは冒険と物語が好きな少年少女、そして誰あろう宮崎駿監督の化身なのだと私は思う。
シータが空から降ってきた夜のあくる朝、床で目を覚ましたパズーはすぐにベッドを見る。そこには昨晩と同じように少女が寝ている。
この場面、セリフなんてなくても彼の気持ちが痛いほど伝わってくる。
"夢じゃなかった…!"
ここでのパズーの微笑みは、少女の無事に安堵しての事なのはもちろんだが、それと同時に"こんどこそ冒険がはじまる"という空想が現実になった瞬間だった、という意味もあったのだと思う。
考えてみれば宮崎駿のその後の映画も、いつだって物語のはじまりを待ち望む少年少女のために作られてきたのではなかったか?
少年が男になる瞬間
そうして、主人公の少年の夢と冒険心の高まりをもって始まるこの「ラピュタ」という物語ではあるが、それだけの映画では決してない。
夢を見るだけでは少年は子供のままだが、挫折と現実に打ちのめされるうちに本当に守らなければいけないものが何なのかに気づく過程で、ドーラの言葉を借りるまでもないが、「急に男になった」 のである。
私が初めて本作を鑑賞したのは10歳か11歳くらいの頃だったと思う。
その血湧き肉躍る冒険活劇の裏で、物語イコール非日常、では断じてない、と言うことに気づかせてくれた。
そして、それ以上に本当に大切なものが何なのかを教えてくれた映画でもあったと思うのだ。
その後、なんやかんやと色々とあってすっかり煤けた中年になっても、「天空の城ラピュタ」を鑑賞するたびに心だけはキラキラと輝きを取り戻すことができる(気になる)、私にとって稀有な作品となった。
「ラピュタ」の思い出
ひとつ忘れられない思い出がある。
今から15年ほど前、私がまだ会社員だった30歳くらいの頃 仕事仲間数人で飲みに行った帰り、終電もなく一人の同僚の家に数人で転がり込んだ。
その中に、スペインから来たミレンという女性がいた。ミレンは私と年も近く、日本のアニメや漫画が好きで、実は日本語はほとんど喋れないのだが、バイリンガルの鄭ちゃんという中国系マレーシア人の女性を介してなんやかんやと仲良く遊んでいた。
酔っ払い特有のノリで映画でも観ながら飲み直そうという流れになり、誰かがなぜか「天空の城ラピュタ」を再生し始めた。そこにいた数人は全員何度も観た映画ではあったが誰も反対はしなかった。
物語の中盤で、ティディス要塞からシータを救い出すシーンがある。
パズーがフラップターから逆さまになって塔の上から飛び降りたシータを受け止め、そのまま飛び去る時、空賊の仲間による煙幕で軍の追撃から逃れ、シーンは終わる。久石譲の音楽とアクションの間が絶妙で何度観ても心が躍る名シーンだ。
そこで、ミレンがポツリと言った。
「もう何度も観ているはずなのに、全く色褪せない。まるでいま初めて観たみたいに、今回が一番感動している。いまほど"これはパーフェクトな映画だ!"と感じた瞬間はない」
私も全くの同感だった。
優れた作品は言葉も国の違いも越えるんだ。と、眠い頭でぼんやり思った。
酔いは、どこかに消えていた。