絶対の幸福はあるのか?
先日、左耳が聞こえづらかったので、耳鼻科に行ったら、「突発性難聴」と診断されました。
健康には自信があるほうだったので、この診断は、私にとって文字通り「寝耳に水」。実母をガンで亡くした経験があるので、健康には人一倍気を遣っていたつもりでした。むしろ、それまでは健康オタクだったと言っても過言ではありません。
「何故、私が?」
そんな思いが渦巻いていた時、以下の記事に遭遇しました。
要約すると、「財やお金に恵まれる」、「健康で元気である」、ということは、人が幸福に生きる条件として大切な要素であるが、それ以上に「心の長者」になれ、とお釈迦様(ブッダ)は説かれた、という話。
「心の長者」とは、心に最高の宝を得た人のことをいいます。
「人間に生まれてよかった、生きてきて良かった。この身になるための人生だったのか」と、生命の歓喜、永遠の魂の喜びを得た人だからです。
人間は、皆、いつかは老いて、病気にもなるし、最終的には必ず死にます。
当然ですが、お金も天国へは持って行けません。
大富豪の元に生まれ、何不自由なく育ったシッダールタ(ブッダ)も、必ず通らなくてはならない道。むしろ、恵まれた環境にあるからこそ、それらを失う恐れは計り知れないものがあります。(それを機にシッダールタは出家しました)
私的な解釈ですが、この「心の長者」とは、「自己受容」のことではないかな?と思っています。
極端な話、お金がなくても、不健康であっても、自己を受容している人は恐れるものがない。
私も今、この「自己受容」を問われているような気がしてなりません。身体に不調が出たのも、このことが原因だと思っています。「この身に生まれて良かった!」と歓喜するために、私は、この「経験」をする必要があるからです。
その根拠は色々とあるのですが、今日は長くなるので、続きは次回にでも…。
「自己受容」、あなたはできているでしょうか?
UnsplashのMohd Nasirが撮影した写真