幸せって「快」?という疑問 「宮崎駿監督の言葉」と「人間の始まり」
1 快という幸福感に対する疑念
どうにかして「快」を得たい。
もっと楽に生きれないものか。
好きなことをして儲かって、お金も時間も自由で
好きな人達とだけ交流できる毎日が楽しい日々。
そして、自己成長もあって、その都度、新しい仲間が増えて
新しい世界(有形・無形)も見えていく、そんな人生。
そんな人生だったら、さぞ幸せだろうと、
まずは、好きなことで貢献できて収入も得られるようにと
仕事や介護や、その他もろもろ、なかなか進まないけれども、
少しづつ学び行動してきた。
それがこの期におよんで、だ。
疑問が起きてしまった。
そのなりたい世界は、本当に幸せを感じられる世界なのだろうか?と。
苦しみがないのは、確かに「楽」(ラク)
楽=幸せ なんだろうか。
家電でも何でも、早いとか楽とかが求められて
それがいいという流れなのだけど
確かにそういうのは売れてるようなんだけど
きっと、自分はそう思い切れない質を持っているんだと思う。
2 ちょっと不都合でも五感を使えることの幸福感
冬の水の冷たさを手を通して感じること
しゃがんで雑巾で床を拭くこと
スライサーでなく包丁で千切りをすること
家電ではなく圧力釜を使い、音を聞き、火を止め蒸らす時間
古いと言われるものだと思う。
そういう事に慣れてきたからとも言える。
でも、私の感じる幸福感は、今はそこにある。
そうやって五感を使うこと自体に
何か「幸せ」みたいなものを感じている。
「快」でも「楽」でもないけれど。
3 宮崎駿監督の言葉
そうやって、疑念を抱いていたら
私は、回答を探していたのか、
いや、別のことで探していたのに、この動画を発見。
何か、ここに、自分が求める答えがあるように感じた。
損なのか、貪欲なのか、多数派でないようで、大変だ(笑)
4 何十年も前に見たテレビ番組の忘れられないシーン
NHKの「生命40億年はるかな旅」
この番組の中で、
1匹の猿がアフリカを捨てて砂漠に歩き始める映像があったように思う。
もう30年くらい前だから、うろ覚えだけど。
食べ物もあり、普通に暮らせていたのに、
何もない、この先どうなうかも分からない、
未知の土地に歩き始めるシーン。
なぜ、このような行動を取ったのか。
つまらないというだけで安全な場所を離れるのだろうか。
好奇心なんだろうか。
分からない。
分からないけど、
きっと、そのDNAを、人間は持っているんだと思う。
「快」で終われない何かを。
でなければ、未知なる・更なる「快」を求めてなのか。
苦しみたくはないのだけど。
楽なのがいいと思う。
不快も痛みも避けたいのだけど。
何か、そこでは終わりたくないと
内なる声が小さいながらも聞こえてしまった。
残念でもあり喜びでもあり、
エンディングに向けて、どう生きるか。
私にとって、ちょうどいい塩梅が、
どんな状態なのか、手探りで見つけていこう。