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現代詩2.0のまとめ

先週くらいから主に僕を中心に発されている現代詩2.0というワードですが、おそらく何を指しているのか、何をやりたいのか、僕のツイッターとか見ている人でない限りちんぷんかんぷんでしょうからここに一度纏めようと思います。

一連の思い付き

少し長いですが、要点だけをお話しすると、
・現代詩2.0がなんなのかまだ決まっていない
・みんなで自分の書いたもの現代詩2.0だと言い張って一番面白かったものを現代詩2.0と呼ぼうぜ

です。僕自身先週、自分で「これが現代詩2.0だ!」と文章をnoteに投稿しましたが、別にそれを規範にしてくれだなんて1mmも思っていない。

あともう一つ大事だと思うのが

・現代詩2.0は特に既存の詩壇を否定したいわけじゃない。

これ大事ですね。2.0とか呼ぶと、アップグレード版かと思うかもしれませんが、実質は現代詩から「詩の歴史」と「詩とは○○でなければならないおじさん」をアンインストールした簡易版と捉えるのが今のところベターなのではないかと思います。

要するに既存の現代詩に親しむ人たちを決して否定したいわけではなく、少しその価値体系から離れて自由に評価や批評(新たな価値体系の創出)が行われる空間があったらおもしろいんじゃないか、という発想です。
詩なんて今まで全く関わりの無かった人から一切の参入障壁を取り払って面白い文芸空間が出来たら面白いな、と。

例えばちょっと前に話題になったジョイマン・高木さんのツイート

これは飽くまで僕の考える現代詩2.0の話ですが、こういうの現代詩2.0と呼びたい、だって最高に面白いもん! というシンプルな動機に基づいております。
でも「面白い!」って声のでかさで面白さ競ってもやっぱりそれはあまり優雅じゃない。だから僕は「批評」を大事にしたいなと思います。

批評ってめんどくさい?

批評についても少し呟いたものを引用します。

僕の「批評」のイメージってこれです。特にまだなんの価値体系も決まっていない言論空間においては、いかにでっちあげるかが一番大事。そのなかで華麗な3回転ひねりだとか、やたら長い滞空時間だとか、なんかそれとない優雅さでオーディエンスを納得させる=新たな価値体系を創出すること。
それこそが批評の役割だと思っています。

もうすこし簡単に述べると鑑賞という行為は3者行為だ! と常日頃思っています。つまり 作品 と 読み手 と 尻の穴にこっそり覚せい剤を入れる人=批評家 です。これについては説明しはじめるとものすごく長くなるので割愛しますが、そういうものだと思っています。

だから最初の現代詩2.0の説明とこの批評=ケツ・アンフェタミンを合わせて、かつシンプルに説明するとするならば。

好きな文章を、現代詩2.0に、でっち上げろ

ということになります。ちなみに僕が書いた「僕たちはもう既にあいみょんに許されているのかもしれない」はそういう意味での批評=でっち上げです。(「マリーゴールド」を現代詩2.0にでっち上げる行為)

もちろん文章を書いて現代詩2.0と言い張るだけでも十分です。
でももし「新たな価値体系の創出」というものに興味がおありだったら、批評=ケツ・アンフェタミン、をやってみるのも面白いかもしれません。



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芦野夕狩
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