痛い思いをしないとわからない
虐待サバイバーのゆうかです。
父はよく、私達を殴りながら、
「子供は痛い目に遭わなければわからないんだ。体で覚えるもんだ!」と言っていました。
暴力をふるう人の常套句ですよね。
当時は、学校で体罰が許されていた時代でした。学校で、悪さをした友達が体育の先生に思いっきりビンタをされたり、授業中に寝ていた友達が、出席簿で思い切り頭を叩かれたりするのが日常でした。
(もちろん今ではあり得ませんが)
私は中学生くらいになると、私は悪いことをしていないのに、父が私を殴ることに、やっと気づきました。
けれど、それでも私にも罪があると思っていました。父のご機嫌をとれなかった、うまくやれなかった、私に原因があると思ってしまっていました。
けれど、父の
「子供は痛い目に遭わなければわからないんだ!」
という言葉は、違うと思っていました。
何度痛い思いをして、反省しても改善しても、父からぶたれなくなることはなくならないのです。
気まぐれすぎる父のご機嫌をとり、父の思い通りの行動を取り続けることは、不可能だったからです。
それでも、私は、痛い思いをしたくなかったので、必死に努力しました。
怒られないように、殴られないように、怒鳴られないように、考えて考えて…さらに考えて考えて……
それでも、完全には父の思い通りにはできず、また殴られてしまうのです。
だから、私は、教育に「痛い思い」は必要ないと思っています。
「痛い思い」をさせることは、躾や教育はあり得ないと思っています。
「痛い思い」をさせて、子供に言うことをきかせるなんて、絶対に間違っています。躾であるはずがありません。
そして、「痛い思いをしたくない」が、子供の努力の要因や、行動の要因になってしまうなんて、決してあってはならないと思っています。
「痛い思い」をしないために、どうすればいいか、前も悪も正も不正も関係なく、そんなことを子供が必死に考えなければならないなんて、この世界に必要なものではないと思っています。
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