私は虐待サバイバーのゆうかです。 生まれてから20歳を過ぎるまで、父に虐待されて育ちました。なんとか生き残り、なんとか無事に大人になれた人間です。 心理的虐待、物理的虐待、性的虐待、ネグレクト、すべてを経験しています。 思い出したくもない過去ですが忘れられません。 私は、父33歳、母27歳の時にふたりの次女として1970年代に生まれました。 その当時はまだ虐待についての理解が、今ほどはない時代だったと思います。 近所の方に通報され警察官が来ても、父が、
虐待サバイバーのゆうかです。 「虐待」とは… ウィキペディアによると 【繰り返しあるいは習慣的に、暴力をふるったり、冷酷・冷淡な接し方をすることである。具体的な内容は様々で、肉体的暴力をふるう、言葉による暴力をふるう(暴言・侮辱など)、いやがらせをする、無視をする、等の行為を繰り返し行うことをいう。】 と記載されています。 確かにその通りだと思います。 ただ、私が自分が受けたことをこのnoteを書き進めているうちに感じたことがあります。 私は「虐待」されていたというよ
虐待サバイバーのゆうかです。 私は姉妹の中でも一番激しく怒られました。 理由は色々あるのですが、私が父の標的になっていたのは確かでした。 4人姉妹の2番目である私は、頑張り屋で負けず嫌いで頑固でした。 そんな私は父に殴られても泣かないように耐えたり、怖くないふりをしていました。 そんな私を父は可愛くないと思ったのか、殴る手をなかなか止めてくれないことがありました。 また、私は責任感が強かったせいか、家族を父の暴力から守らなければと思っていました。 父の機嫌が悪くなり、何
虐待サバイバーのゆうかです。 私は小さい頃から、父に虐待されていました。 何も悪いことをしていないのに、父の機嫌が悪かったり、父の好き嫌いだけで、怒鳴られたり殴られたり、水風呂に入れられたりしましたので、私にとっての我が家は決して安心できる居場所ではありませんでした。 家では、日常をビクビクしながら過ごしていました。 家の中は、まるで戦場です。包丁を突きつけられたり、包丁を持って追いかけられたりしましたので、私にとっては生きるか死ぬかの場所だったのです。
虐待サバイバーのゆうかです。 私が受けた虐待は、実父からで様々な種類の虐待がありましたが、子供だった私が、絶対に見たくなかったものを見せられた記憶があります。 それは、お正月などの親戚の集まりの時のことでした。 父は母の姉のひとりをとても気に入っていました。たぶん大好きでした。 父はその人の前では、明らかにニヤニヤ話しかけ、母の前でも明らかに好意を態度に出していました。ボディタッチがすごく多かったことも、見ていてとても不快でした。 私はまだ小学生でした。し
虐待サバイバーのゆうかです。 私の人生で一番楽しい思い出は大学時代でした。 私が大学生になっても父の虐待は続いていましたが、私は大学入学と同時に、サークルに入りました。高校時代は、大学に入るためだけに猛勉強にあけくれていましたから、大学ではサークルに入り、色々な方とコミュニケーションを楽しみたいと思っていたからです。 私が入ったサークルは、自然を愛するサークルで、野鳥を見に行ったり、登山をしたり、高山植物を観に行ったり、スキーを楽しんだりするサークルでした。
虐待サバイバーのゆうかです。 私の特技は過剰適応です。 もちろんあまりポジティブな意味ではありません。 過剰適応とは、「ある環境に合うように自分の行動や考え方を変える程度が度を超えている状態のこと」です。 その結果、うつ病やパニック障害などの性心疾患を引き起こしやすいと言われています。 私の場合はまさにこの状態です。 父に虐待されていた私は、無意識に父に過剰適応することで、自分を守ろうとしていたのだと思います。 父は、自分が好きなものを私が嫌いとい
虐待サバイバーのゆうかです。 私は生まれて間もなくから、20才を過ぎるまで虐待されていました。 小さな頃から、様々な虐待をされていました。 私は後に解離性同一障害になりましたので、虐待の内容について、全てを覚えているわけではないかもしれませんが、自分が受けた屈辱や苦痛や痛みや悲しみの数々を、ハッキリと覚えています。 父は私が解離性同一障害になった私を見た時に、自分の虐待が原因だと泣いて私に謝りました。 その後も、時々謝るのです。 初めのうちは、謝ってく
虐待サバイバーのゆうかです。 子供が虐待されたニュースを、時々耳にします。 その度に、虐待されていた子供が発見され、酷い親から引き離されて保護され、これからは幸せに暮らせると、胸をなでおろす方もいらっしゃると思います。 ただ、虐待された子供は、それが明るみに出て、自分が保護され虐待が止まった途端に、「ああ、よかった」と普通の生活に戻ることができるわけではないのです。 自分がされたことやその程度や個人差はもちろんありますが、虐待された子供は心に深い傷を負って
虐待サバイバーのゆうかです。 私が初めて心療内科に行ったのは24歳頃のことだったと思います。 その頃私は、体調不良で、内科に通っていましたが、なかなか回復しなかったことで、内科の先生が心療内科を紹介してくれました。 だいぶ昔のことなのでハッキリ覚えていないのですが、心療内科では、初診は、「親の虐待による心身症」と診断されたと思います。 「PTSD」という言葉は、今ほど主流ではなかったか、まだ出てきてなかったかもしれません。 主治医は男性でしたが、診察され
虐待サバイバーのゆうかです。 これは私が小学2年生くらいの頃の話です。 家には私と父しかいませんでした。 父はいつもどおり、急に何かに逆上しはじめました。 理由は全然覚えていませんが。 ただただ怖かったことを覚えいます。 もちろん私にはどうすることできず、父の逆上は増すばかりでした。 キッチンにいた私たちでしたが、やがて父は包丁取り出しました。 包丁を取り出されことは今までも何度かありましたが、私の記憶ではこの時が初めてだと思います。 あろうことこか、父はその包丁
虐待サバイバーのゆうかです。 私は生まれてから20年以上親に虐待されていました。 幼い私は、悪いことをしてないのに虐待されることを理解できずに、毎日混乱していました。それを理解するために私は理由を作りました。 私が悪い子だから、私がだめな子だから 虐待されるんだという理由を作りました。 そしてそれをずっと信じて込んできました。私は罪人なんだと…。 私の人生は苦悩に満ち溢れていました。親元を離れ就職した会社でのパワハラとセクハラ…。 そして、恋をし、信じら
虐待サバイバーのゆうかです。 父はよく 「俺はバレないところしか殴らないんだー!!」 と叫びながら私達を殴りました 怪我が目立つと世間にバレるからです。 ただ、何度も近所の方に通報されていたので、近所にはバレていましたが、父としては学校にバレないようにするのが目的だったのだと思います。 私達が殴られたのは、主に頭とお尻と足の裏。 まず頭です。頭はグーでなぐられました。脳振盪になったことも何度もありました。立ち上がれずにいると、さらに怒られました。倒れ
虐待サバイバーのゆうかです。 父はおねしょに関しては、とても寛容でした。父自身が、子供の頃におねしょをよくしていたからのようです。おねしょで怒られることはありませんでした。 私が小学生の高学年のある日、朝起きると妹がおねしょをしてしまっていました。私はとっさに「大丈夫、大丈夫、心配しないで」と大きな声で言いました。 その時、父が部屋に入ってきたのです。 そして、私を睨みつけてすごい剣幕で怒鳴りました。「何が大丈夫なんだ!!!お前何言ってるんだ!俺を舐めてんの
虐待サバイバーのゆうかです。 私は、3〜4歳頃からスパルタ教育で勉強を教えられていました。歌もスパルタでした。 それに加えてスポーツも同じでした。鉄棒、縄跳び、バク転、キャッチボール、卓球、バドミントンなどなど。全てスパルタ教育でした。 私は、特にキャッチボールが苦手でした。あの固いボールが怖くてたまりませんでした。父は運動神経が良く、スポーツは何でもできる人だったので、そのレベルを私にも求めたのかもしれません。 「グローブは顔の前に置き、ボールは顔の前でを
虐待サバイバーのゆうかです。 私は父に虐待されない、認められたい一心で勉強を頑張りました。そのおかげで、無事に国立大学に現役合格しました。 後から知ったことですが、被虐待児は学力が低い場合が多いと聞きました。 私の場合は、たぶん頭は良くなかったと思います。国立大学に合格できたと言っても、高校時代、1日中勉強しかしない生活を送っていました。ご飯中も入浴中もトイレ中も歯磨き中も、ずっと勉強していました。 もちろん、テレビも見ませんし、友達と遊びにも行きませんでし