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掌編小説「レモンケーキと忘却」

 数年ぶりにお菓子を作った。レモンケーキだ。
 バレンタインデーが近いということもあったが、なによりも家事をするだけの日々に退屈を感じていた。手軽な非日常体験が欲しかった。
「わたしにしては上手に出来たと思わない?」
 晩御飯を囲みながら、七森は携帯の画面を見せつける。インスタグラムに投稿した写真には既にいくつかの〝いいね〟が付いていた。向かいに座る茶坂が「え、俺の分残ってないの?」と口にし、実物を見せれば良かったことに気付く。冷蔵庫から持ってくると、晩御飯の途中にも関わらず彼は手を伸ばした。「うん。うまいよ、これ」と目を見開いて言った。
 翌日から、七森は憑りつかれたようにお菓子作りに励んだ。チョコブラウニーやアップルパイ。フロランタンにチーズケーキ。最初こそ穴の開くほどレシピを見つめていたが、一ヶ月が経つ頃には要領を掴み始めた。オーブンで生地が膨らむ様を見ながら、自分が子どもの頃、母親と並んでお菓子作りをしていたことを思い出す。チョコを溶かしてかたどるだけの簡単なものだったが、当時はそれが魔法のようで、たまらなく嬉しかった。
「こずえはお菓子作りが上手ね」
 母親の言葉と、目の前にいる茶坂の言葉が重なる。彼は相変わらず、頬がぱんぱんになるほど詰め込んでいた。「うまいよ、これ」と指をさす。子どものような無邪気さが微笑ましい。
 SNSの反響も凄かった。大学の友人や後輩だけでなく、まったく面識のない人からメッセージが届いた。閲覧数を見ると、綺麗な右肩上がりを示している。ただ、今回作ったシフォンケーキはあまり伸びていない。
「どうした、そんな浮かない顔して」
 そう尋ねる彼の口元には、生クリームが付いていた。ティッシュを一枚取って渡す。七森は目を合わせると、静かに首を横に振った。偶然かもしれない。そう思うようにして、台所に残った食器に水を注ぐ。固まってしまった泡立て器の汚れがなかなか取れず、ため息をつく。
 お菓子の写真を投稿し続けて、ひとつわかったことがある。
 SNSはプロもアマチュアも関係ない、平原の戦場だ。プロは血気盛んなアマチュアたちに足元をすくわれないようクオリティを保つ必要があり、アマチュアはプロと同じ舞台で戦っていることを自覚しなければならない。七森がよく目にするインスタグラマーたちは、所謂〝主婦のプロ〟だった。血生臭い努力が、きらびやかな数字に繋がっている。
 呼吸を整える。覚悟を決めなければならなかった。茶坂のいないリビング。クローゼットをゆっくりと開ける。日差しが中に入って、真っすぐな線を描いた。奥の方に片付けた、七森の私物。退職金はあまり多く残っていない。封筒から三分の一ほど抜き取り、枚数を数え、二枚戻す。零れ落ちそうなほど薄かった。子どもの小さな手を握るように、七森はそっと丁寧に折り畳んだ。

「あれ? どうしたの、明かりも点けずに」
 仕事から戻ってきた茶坂がリモコンのボタンを押す。突然の明るさに眩暈がした。画面の端には〝22:35〟という数字が表示されていた。WEBの記事で読んだ、ベストな投稿時間がもうじき終わってしまう。すでに途方もない労力を使った後だった。考えがうまくまとまる気配はない。
「ご飯どうしたらいい? お茶漬けとかでもいいけど」
 頭を上げると、彼は脱いだジャケットをハンガーにかけながら、台所を見ていた。
「あ、ごめん。まだ作ってない。ケーキならあるけど」
「ケーキ? 今日、何かの記念日だっけ。忘れてたらごめん」
「ううん。いつもみたいに作っただけ」
 ローテーブルに近寄った茶坂が、「またすごいの作ったね。なんて名前のケーキだっけ」と熱を込める。彼に話しかけられ、頭の中で組み立てていた文章が塵のように消えてしまった。七森はスマホに視線を向けたまま、「ブッシュドノエル」とだけ答える。
「こんなお皿あったっけ?」
「買ってきた」
「テーブルに敷いてある黒い布も?」
「うん」
 画面上で指を滑らせる。タタタタと、冷たい音が七森の思っていることを代弁しているかのようだった。食器とテーブルクロスは、映えを意識するために買ったものだ。他にも、背景に写す小物や簡易的な照明器具も揃えた。ミラーレスの一眼レフカメラもある。
 すでに部屋着に着替え終えた茶坂がベッドに腰を下ろす。切り分けたケーキを膝の上で食べながら、「ねぇ、これすごく美味しいよ。こずえは食べないの?」と呼ぶ。
「先食べてて。わたし、これ投稿したいから」
 七森は喉を鳴らしながら、消したり書いたりを繰り返す。うまくいかないことへの苛立ちが募り、腕に赤い線が出来た。知らぬ間に爪を立てていたらしい。そんな空吹かしの状態が二十三時を過ぎても続いた。正解がわからなかった。瞼が重たくなり、最終的には勢いで済ませる。体中に疲労が満ちていた。カーペットの毛が頬に当たる。薄目を開けると、ゴミ袋を縛る彼の後ろ姿が見えた。
 朝起きて鏡を見ると、目の下にクマが出来ていた。お菓子作りとインスタグラムの投稿。そのふたつだけで陽が沈む。そんな日々が続いた。努力の甲斐もあって、閲覧数は大きく伸びたが、同時にこの閲覧数を守らなければならない使命感に駆られていた。背後には刃物が突き付けられている。休む暇はない。
 ある晩、いつものようにSNSを開いていると、茶坂が話しかけてきた。彼の顔を見た時、なんだか久しぶりに会ったような気がした。度重なる残業のせいか、彼の目にもクマがあった。
「ねぇ、ハンドクリーム持ってたりしない?」
「なんで?」
「手が荒れちゃって」
 彼の手を見た時、はっとした。表面は乾燥しており、あかぎれを起こしていた。覚えのある症状だった。罪悪感が胸に迫る。仕事から帰った後も、彼は黙々と家事をしていたのだ。七森は気付いていた。気付いていたのに、見て見ぬフリをした。
 そして、それは彼も同じだった。七森の暴走を、見て見ぬフリをしていた。
 これはプロじゃない。ただの身勝手な人間だ。
 七森は彼の手を両手で包み、額に当てる。喉から絞り出すように、言葉を吐いた。


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