あらためて おもうことと

ここ数週間 noteへアクセスしまくって、テキトーなおすすめ記事や
見つけた面白そうな人の過去記事やらをさささっと読んだりして
さらには自分で何件か記事とか書いてみたりしたけど

不思議なのは
読んでるときに使う頭と
書いているときに使う頭が
微妙に違うってとこで

読んでるときは、なんというかさらさらと読みながらも「ふむふむ」とか「ほー」とか思えるのに
書くになった瞬間、自分の文では「ふむふむ」とか「ほー」とはならずに
「は?」とか「ん?」しか出てこんのよな

ま、そりゃそうか
あるものをあるとして読むのと
ないものをあるとして読むのには違いがあるか

ってことは自分で書く時もあるものとして書いて読めば「ほー」ってできるんか


文章を作るっていうのは「読む」とはまた違った能力なんやと改めて思うわな


でも、よく言う、本をよく読む人は文才がある的なのは
この理論で言えば全くの別物よな
よく読んでそれをどれだけうまくかみ砕いたとしても
それは「あるもの」を「あるもの」として捉えられるだけで
「ないもの」を「あるもの」にするという話では全くないわけ

つまり、本をよく読むから文才があるというのは
ある種の高精度な真似の才なわけ

と思って調べてたら、こんな名言ありました。

すべての創造は模倣から出発する。そして創造が真の意味の創造であるためには、その創造のための模倣が、創造的模倣でなければならない。もっと簡単に説明すれば、芸術家の盗み方に創造の秘訣、あるいは独創性が隠されているのである。

池田満寿夫『模倣と創造 : 偏見のなかの日本現代美術』


なんや、人類理解しとるがな

つまり吸収したものを模倣として吐き出す
この模倣の集積がオリジナリティへと昇華すれば超一流になるわけか

でもなんの吸収もなく、そのまま優れたオリジナルを吐き出せるタイプも存在するってのが、恐ろしいとは思うけど


うーん、でもそんなんもイデア論で解決するよなー


ぽんぽん うぇー

みなさんサポートしてますよ?あなたもいかがですか?