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短編文学的エッセイ 【初秋の通夜】

夕方、スマホが振動した。
画面を開くと、地元の友人Aから短いメッセージが入っていた。「ママが亡くなった」と。しばらくその文字を眺めた。彼の母親が亡くなったのか、と自然に思った。
彼とは昔からの仲で、彼の家庭のことも多少は知っているつもりだった。それに、「ママ」と呼ぶなら、それはきっと彼の母親だろう。突然のことにどう反応すればいいのか分からず、心の中に軽い衝撃が走った。

僕はいつものように無難な返信を打った。
「なんて言ったらいいかわからないけど、何かあればいつでも言ってくれ」。
言葉にすると、それは表面的な慰めにしかならないのかもしれないが、こういうときは言葉をかけること自体が重要だと思った。
何かしら反応しなければならないのだ。

少しして、彼から返事が届いた。
「そういうことじゃない。今日19時に他のみんなと通夜に行く」。頭の中が一瞬混乱した。「そういうことじゃない」?
その言葉の意味がすぐには理解できなかったが、深く考えることを避けた。
ただ、「ママ」という言い方に対する違和感が、心の中に残った。
それでも、彼がそう呼ぶなら、それは彼の自由だろうと自分に言い聞かせた。彼の家族のことだ、他人が口を挟むべきではない。

その日、感情を整理する間もなく、職場に理由を伝えて、17時半に早退した。
通夜は19時からだったので、家に戻る時間は少なかった。急いで喪服に着替えながら、胸の奥に何かが引っかかる感覚があった。
これから向かうのは、友人の母親の通夜だと、心の中で何度も確認していた。

誘ってくれた友人とは別の友人BとCの2人が車で迎えに来てくれた。
2人とも久しぶりで色々と話をしたかったが、通夜に行く道の中でそういう話をしてもいいのか分からず、夕暮れの道を走る車の中、沈黙が続いた。
車内は妙に静かで、どこか重苦しかった。
外の風景は既に暗く、心の中の曖昧な感情がさらに膨らんでいった。

僕ら3人は当事者の友人Aを迎えに行き、後部座席の僕の隣に彼は乗り込んだ。
どんな言葉をかけるのがいいかも分からず、僕は緊張した。
友人Aは乗るなり、「闘病中で多分まともに食べてなかったんだと思う、この前先輩と飲みに行った時には元気だって言ってたのに」
と言った。
僕は不思議に思った、なぜそこで先輩の名が出るのかと。友人Aの話を聞いていると、そのAの口から驚くべき言葉がこぼれた。

「ママ」というのは、どうも彼の母親ではなく、かつて僕たちが通っていたBARのママのことだったのだ。

瞬間、頭の中で何かが崩れる音がした。

僕は自分が大きな誤解をしていたことに気づき、心の中でふっと笑いたくなるような、不思議な感覚に囚われた。
何か重要なことを見失っていたのかもしれない。車は淡々と通夜の会場に向かって進んでいた。

会場の受付にて、僕は3000円の香典を手渡し、「お悔やみ申し上げます」と、ぎこちなく言った。人生で初めての通夜で、初めてその言葉を口にした。違和感のある響きだった。

周囲を見渡すと、知らない顔ばかりが並んでいたが、中には過去に話したことのある人や、地元の先輩もちらほらと見えた。
中学時代に仲が良かった女の子の後輩もいたが、彼女は僕に気づく様子はなかった。

僕は自分が今、どこにいるのかが分からなくなったような気がした。
この場が現実なのか、それとも別の世界にいるのか、頭の中がぼんやりしていた。
これは人生で初めてのお通夜だった。
物心ついてから、こうした場所に来たのは初めてだった。

なんて貴重な経験だろう、と冷静に考えながら、こんなに多くの人が集まっていることに感心した。
僕の葬式には、どんな人たちが来るのだろうか、とぼんやりと思いを巡らせた。
誰が僕の死を悼んでくれるのか、誰が僕を覚えていてくれるのか。

慣れない手つきで焼香をあげ、後ろの方で立っていると、前方からお坊さんの声が響いてきた。彼の唱える経文は、まるで異国の呪文のように聞こえた。頭の中には何も入ってこなかった。ただ、その場の雰囲気が心に重くのしかかり、できることならば僕はその場を立ち去って外の空気を吸いたかった。
いつもの日常に戻りたかった。

お坊さんが引き上げると、葬儀会場の係の人が「対面してお別れしたい方はどうぞ」と静かに案内した。僕たちは前の人に続いて歩み寄った。そこには、美しく化粧を施された「ママ」が横たわっていた。

彼女の顔は穏やかで、まるで眠っているかのようだった。けれども、もう彼女は二度と動かない、目を開けることもない。
とても不思議な感覚だった。そこに横たわっているのは、「ママ」ではなく、ただの「身体」、文字通りの「遺体」だった。

僕は、彼女が息を引き取った瞬間を想像した。どんな気持ちだったのだろう、どんな最後だったのだろう。
親族や遺族が泣いている中で、僕は静かにお辞儀をし、会場を後にした。

外に出る前にお清めの塩を手にして、車に乗り込む前に身体を清めた。その時、友人Aが「お前、香典なんて出さなくても良かったのに」と言ったが、僕は軽く首を振った。

「薄い繋がりかもしれないけど、何かの縁で関わりあったんだ。それに、これも僕にとっては人生初の通過点だったんだ」と、妙に納得できた。そして、これもまた一つの経験なのだと、僕は静かに思った。

※この作品はフィクションです。
※特定の個人・団体とは関係ありません。

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