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『サブ・ウェイ』に乗車する
地下鉄、と聞いたとき、私たちは何を想像するだろうか。私にとっては通勤手段であり、それ以上のものではなかった。しかし、地下という自然光と切り離された空間でひとつの箱の中に人間が押し込められれば、そこには一瞬独特な世界が生まれる。あなたは地下鉄で乗り合わせ、たまたま隣に座った人を信用できるだろうか?
この本は、帯に書かれたそんな問いかけから始まる。
表紙を捲ると、見返しの次に遊び紙が二枚。そう、真っ赤な遊び紙が二枚挟まれているのだ。最初に見た時は深く考えもしなかったが、読了後の今思うと少しぞっとするものがある。これは私たちの皮膚の暗喩なのではないだろうか、と。
主人公の名前は穂村明美。背が高くスラリとした美人で、感受性の強い女性というイメージだ。気の強いところはあるが、内面は素直で優しい。そして若さゆえの無鉄砲さも持ち合わせる。
明美の恋人・要一は二年前に麻布十番駅構内で何者かに襲われて命を失った。二年経ってもその死に囚われたままの彼女は、何か事件の手掛かりを掴めればと地下鉄内の私服警備員を始める。己の気持ちに区切りをつけるために。
区切り。
そう、作中には区切りという言葉が何度も登場する。
この言葉には凡ゆる側面があると思う。
物理的な区切り、空間的な区切り、あるいは心理面における区切り…、とにもかくにも、私たちは色々な要素によって「区切られた」結果、「個」として存在しているのだ。
『サブ・ウェイ』では、そんな私たちが地下鉄という特殊な空間で出会う別の個との遭遇を、主人公の目を通して仮想的に体験していくのである。
物語はセクションごとに「区切られ」、けれど電車の連結部のように根底では繋がっているという面白い構造になっている。
唐突だが、自他の境界とはなんだろうか。
解剖学では、私たち人間は皮膚によって外界と区切られると教わるものだが、果たしてそれだけなのだろうか。
物理的には確かにその通りだが、心理的にはなかなかそうはいかないものである。特に人は、近しいものほど自分の一部として認識する傾向があるように私は思う。親と子の関係然り、夫婦間・恋人間にも同様のことが言えるし、実際に作中にもそのような記述がいくつか登場する。
この作品のテーマは、明美が自他の境界を知っていく過程にあるのだと私は思う。
物語の序盤では、要一を自分の延長線上に捉えていた明美はその死を受け入れられずにいる。しかし地下鉄内で遭遇する事件を通して、薄皮二枚(自分と相手で二枚。そう、二枚なのだ)隔てた先には想像もつかない世界が広がっていることを知っていく。
途中で出会う上司や、個性豊かな三人の友人たちは、その境界線を踏み越えることの危険性を諭してくれたりもするが、同時に心の距離も決まり事も、何でもかんでもぶつ切りにすれば良いというものでもないことも教えてくれたりする。
明美は事件にぶつかるごとに葛藤し、悩んだり反省したりしながら、最終的に自分も数多に存在する「個」のひとつであることに気付く。同時に、辿り着いた「区切り」は自らの意識の果てであり、その先は要一の意識と繋がっている訳ではないことを悟る。そこで初めてその「死」を理解するのだ。
本作はここで終了し、明美が新たなピリオドへと一歩を踏み出そうとするシーンより先に、私たちは頁を繰ることはできない。つまり、本という媒体を通して繋がることが出来た明美の人生への干渉は、私たちにはもう許されないということだ。
何故ならば、それは「区切り」の向こう側だから。
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読書感想文というものを、久方振りに書いた。
普段書いている舞台感想は、基本的に観劇した人を対象にしているので細々した説明を省いていたりもするのだが、おそらく殆どの人が初めて目にするであろう作品について述べる時、その大枠を過不足なく伝えることの、何と難しいことか。しかも極力物語の核心部分、いわゆるネタバレを避けなければならない。
私は専門書以外の本を殆ど読まない。本当はそれすら読みたくなくて、実は大の活字嫌いなのだ。
文字は伝達手段であり、例えば感情を揺さぶられて自分の中に新しい世界観が構築された時、それをそっくりそのまま外界に文字として構築し直すことで他人と共有できるものだと私は思っている。
しかし私の場合、受信ツールは感覚的なもののほうが圧倒的に好きなのだ。形なきものを己の中でロジカルに変換する。今のところ、この瞬間に勝る至福はないと思っている。
だから今回はたまたま、日常的にはあまり考えられないような経緯で飛び込んできた本との邂逅によって、実に年単位振りに読書をすることになったわけだ。
それが『サブ・ウェイ』であったことに、私は奇妙な縁を感じずにはいられない。
人とは個であり、社会とは個の集団である。
これが現代における一般的な認識だろうとは思うのだが、天人合一思想という中国古来の哲学をご存知だろうか。人の生命現象は森羅万象の一環である、つまり、人も大自然という大きな生命体の一部であるのだという考え方だ。
私が提示するのは、本来は一つの生命体であるはずのものを、細胞ひとつひとつに切り分けてしまったのが今の社会であると見ることもできるという切り口である。
ミクロな集団、たとえば友人や恋人、家族間などにおいて相手を尊重し大切にするためには、互いが個であることを認識することが非常に重要であると思う。しかし集団の単位がどんどん大きくなっていった時、その中で「自らが個であると認識する」ことは「孤独感」に繋がっていく。
このパラドックスはどこから生ずるのかと言えば、社会というものを維持するために便宜的に切り分けたはずの「個」がいつの間にか本質と掏り替わってしまい、心までバラバラになってしまったのが現代人であるからだと私は解釈している。仕組みとしては個であるが、本来であれば全体でひとつの生命体であるという概念が欠如してしまっているのである。例え話を入れると分かりやすいだろうか。私たちの体の中で肝臓、心臓、脾臓、肺、腎臓は別の器官として存在しているが、それらは独立して動いているわけではなく、協調して一人の人間の体を形作っている。今の私たちは膵臓、あるいはその中のランゲルハンス島、さらにその中のα細胞といったところで、本質的に個として存在できるわけではなく、その事実が孤独であることへの漠然とした不安感に繋がっているのではないかと思うわけである。
だから人は共感してくれる相手を求め、共通の趣味を作り、心の繋がりを作ろうとするのだ。近年では不特定多数の中から自分の感性と似たような相手を探し出してピックアップしてくれるアプリまで存在したりする。
しかし個であることの何たるかを知らずに孤独だけを埋めようとすればそれは依存や束縛といったものになり、その関係性はひどく不健全なものになってしまう。
個であり、全。
現代社会を健やかに生きてゆくためには、自他の境界を正しく線引きできる能力が皆に必要であると考えることが増えてきた昨今、これから医療従事者になろうという時分に佐野広実先生の『サブ・ウェイ』と出会えたことは、私自身の境界を見つめ直すとても良い機会になったように思うのだ。
とは言え、私も寂しがりな現代人の一人である。
こうして感想を書くのも、まだ見ぬ誰かの感性と繋がってみたいからなのかも知れない。