未来感とエモいを繋げるもの | Go Ahead -僕の描く夢- 第9回
そもそも、未来感ってなんだろう?
まずは、1960年代や1970年代の特撮番組やアニメ作品を頭の中に思い浮かべてください。
もしこう言われてピンと来ない方は、「ドラえもん」か「ウルトラセブン」でもかまいません。
最近、成田亨さんの画集「成田亨作品集」を再読したのですが、それを読み終えた際に、改めてこの言葉が頭に浮かんできました。
極端な話、「未来感」という言葉を現代風に言い換えれば、「エモい」という言葉に繋がるんだと(勝手に)私は思っています。
すごい軽薄な響きに見えるかもしれないんですけど、実際はそうじゃなくて、人の奥底にある感情というか、感性を刺激するもの。期待を膨らませてくれるもの。
それが「未来感」であり、「エモい」という言葉ではないのかなと。
これは、決して用例や辞書などに使われるような、褒められた表現ではありません。しかし、堅苦しい表現や回りくどい表現を抜きにして、いかに直感的に表現するかに拘ってみると、結局はここに行き着いてしまいました。
そもそも、若者言葉ってなんだろう?
最近、よく「エモい」や「卍」という言葉が若者たちの間で使われるようになりました。かく言う私もつい最近まで高校生(今も学籍上はそう)でしたから、周りの友達なども頻繁に話し言葉として使っていたり、書き言葉として器用に変化させたりもしていました。
これと似た表現として、「よくわからないけど凄い」という意味を表す言葉には「透明感」という言葉もありますよね。辞書に書かれているものを引用すれば、「透き通っている感じ」や「濁りがなくて明るい感じ」という風になるのでしょうが、実際に用いられている例は大きく異なります。
現在、主に若い世代の人たちで用いられている言葉のほとんどが、この「よくわからないけど凄い」という意味が内包されているのではないかというくらい、日常生活のある一部分では「(固定的な)言葉の意味」という概念がなくなりつつあるように感じています。
結局のところ、「若者言葉」というワードはそれを用いない人たちが「軽蔑的・差別的ニュアンス」で用い出したものに過ぎません。それを用いている人からしてみると、ごく当たり前の用例であり、「その言葉に対して何も知らない人たちが口を挟むのはナンセンス」だと思っていても何も不思議ではないのです。
私も、これについては同じことを思っていたり、考えていたりもします。
少し感情的な表現になってしまうかもしれませんが、なるべく語弊のないように簡潔に纏めると、「あなたたちも若い頃は使っていたのでは?」というようなインプレッションです。
誰もが一度は言われていると思うんですよね。表現は違うと思いますが、大まかに言うと「最近の若者は〜」という感じでしょうか。私だけの感覚かもしれないという前置きをしておきますが、これを言われると「ああ......」と若干萎んだ気持ちになってしまうんですよね。言われた側としてもそうですが、言い手の気持ちや人格について考え込んでしまう。
正直、話し言葉で気を遣うことがないのなら、それはそれで良いんじゃないかとさえ思っています。社会的に必要ないのであれば敬語は必要ないと思っていますし、全ての言葉を受け入れてくれるのであればそれはそれに越したことはない。
でも、そんなことは絶対に実現しないし、してはいけない。きっと、これが実現してしまうと言語そのものが変わってくると思うんですよね。より複雑になってしまうし、その言語がその言語圏のみのものになってしまう。それではグローバル社会に適合しない。
......ここまでの話が、次に繋がってくるんです。
そもそも、私は何故言葉を紡ぐのか?
小説には一定の型があるし、詩や短歌にも定型がある。「定型なんて要らないと思うなら、君は何故言葉を紡ぐの?」という話です。
現代は、20世紀文化と21世紀文化の狭間にある時代です。これは私独自の定義ですが、20世紀の間に社会人になった世代(1970年代生まれまでの世代)と、21世紀から社会人になった世代(1970年代後半以降に社会人となった世代)では、その捉え方に大きく差があると感じています。
今はすべてにおいて曖昧ですし、マクロ的に見ても何処にどう向かうかが見えてこない。そんな不安とともに誰もが生きている世代です。終身雇用なんてありませんし、少子化や移民問題など、20年先がどうなっているかさえもわからない。物書きたちは、その中で自分たちの文化を創っていかねばなりません。
ツイッターやインスタグラムを覗いてみてください。現代は無数の作家が溢れている時代です。
かつてとは違い、些細な表現が大きな社会問題となり、その当事者の人生を変えてしまう危険性が孕んでいる、そんな環境の中で私たちは言葉を紡いでいるのです。
これは参考ですが、私がSNSで発言する上で特に気をつけていることが5つあります。
① 誰にでもわかりやすい表現を心がける。
② 過度に批判的な表現を行なったり、不必要に政治問題や社会問題についての発言をしたりしない。
③ 議論と言い合いは別物。そこに感情的なしこりを残してはいけない。
④ 感情や理屈だけで作品を書かない。
⑤ とにかく筋を通す。
このように、各クリエイターの中でも自分なりにルールを決めたり、或いは初めから定められたルールの元で創作を行なっているという人はかなり多いと思うんです。
でも、そんな中で、何故私は創作を続けるのかというと、「なかなか光が見えない中で、微かに見えたり見えなかったりする光明を掴むため」という側面が大きいのではないかなと考えています。
そのために一定の型は必要であるし、本来、型にはまっていることで安心感を得るヒトでもあります。言葉でも、物書きでも。
これは、ヒトという生き物の本質なのかもしれません。ある意味では。
そもそも、あの頃見えていた未来ってなんだろう?
1960年代の人々が想像した未来と現代を今一度比べてみてください。
まだ、ウルトラホーク1号は空を飛んでいませんし、サンダーバードだっていません。もっと言えば、戦争さえもなくなっていません。
テレビ電話や自動運転は一部実現しましたが、まだまだ実用化には程遠い技術もたくさんあります。
これは、夢があるから良いというわけでもなく、夢がないから悪いというわけでもありません。
私たちの思う「エモい」と、あの頃の人たちの思う「未来感」の大きな違い。それは、一言で言うと「複雑性」です。今の時代にも夢は満ち溢れています。小学生から企業をする人だっていますし、今までにない試みは情報や素材の増加によって明らかにやりやすくなっていると感じています。
結局、ずーっと暗中模索の状態が続いているんです。あの頃も、今も。本質的に違うのは、少し先の未来に抱える不安が多いか少ないか。そして、どれだけ未来に不確定要素を抱えているか。この二つなのではないでしょうか。
決して、現代が心を失ったわけでも、かつてに比べて軽薄になったわけでもありません。時代として抱えなければならないものが増えた。ただ、それだけなのです。
これから先、私たちはもっともっと不確かな未来に生きていくことになります。どうやって生きていくのか、どのように生きていけばいいのか、これまでの歴史や知恵から学びながら、夢を諦めないで歩いていけるように頑張って生き抜いていきたいと思います。
あとがき
今回は特に拙い部分も多かったと思います。かなり専門的な言葉の話や社会性の話に踏み込んでみるという試みを行なってみました。もし至らない部分、ここをこう捉えてみればいいのではないか、という御意見があれば、気軽に書き込んでいただけると助かります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2019.3.7
Yuu
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