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受付嬢京子の日常⑧

「おはようございます」

原田京子はエキモのスタッフスペースで挨拶される事が増えた。以前は素通りしていくだけだった飲食店の若いバイトまで挨拶してくる。京子は、エキモのインフォメーションで働いている。更衣室も違えば、インドメーションから離れた場所の店舗のスタッフは顔を知らないだろうと思う。スタッフスペースで挨拶を交わすようになると、営業スペースで顔を合わせても挨拶されるようになる。皆、以前から忙しそうなのは変わらない。

京子には思い当たることがひとつだけあった。5ヶ月ほど前から入ってきたエキモの店舗のスタッフの顔を思い出す。挨拶を唯一してくる店舗のスタッフだと認識していた。吉田という名前だというのを、高田から聞いたのはいつだっただろう。吉田というスタッフは、エキモのどこにいても、スタッフに挨拶をする。仕事になると、廊下に出て声だしをしている。いつも静かなエキモに声が響く。笑顔で知り合いに話しかけるように「おはようございます」をくり返す。その流れで道を聞かれていることも多い。

吉田というスタッフがスタッフと挨拶のついでに話をしているのもよく見かけるようになった頃、京子は気づいた。朝のエキモが静かではなくなってきていることに。他の店舗からも、声が聞こえるようになってきていた。活気付くというのはこういうことだろうか。吉田は自分より少しぐらいの歳だろうと、京子は思う。

「お疲れ様です」

京子が挨拶すると、商品の棚の入れ替えをしていた手を止めて、吉田が顔を上げる。まるで犬が懐くような無防備な笑顔だ。先ほどまで、悩むような難しい顔をしていた分、そのギャップは大きい。

「お疲れ様です。髪染められたんですね!似合ってます」

京子は自然と笑顔になる。吉田は、京子が髪を染めると必ず気づく。前髪を切った時も一番最初に気づいたのは吉田だ。女性だからと言うだけではない。気づいていても何も言わない人間もいる。吉田は常に人を観ているのだろう、と京子は思う。

「ありがとうございます」

休憩に向かう京子を吉田は引き留めない。通行客に挨拶をし、他の店舗スタッフとも話をする。

「あの人、原田さんのこと好きですよね」

隣にいた片岡聖奈が話し始める。京子は、嫌な予感がしていた。聖奈の口調が何かを含んでいるからだ。同じインフォメーションで働く以上、仲良くしたいと思っている。ただ、ソフトな陰口をよくするのが困る。同意するわけにもいかず、かと言って、全否定すれば機嫌を悪くする。

「みんなに挨拶してるよね」

「あの人、挨拶はしてきますけど、髪型のこととか言ってきませんよ。私には。他の子といる時も聞いたことありません」

聖奈は何が言いたいのだろう、と京子は考える。髪型のことを自分も指摘してほしい、とか?

「たまたまじゃないかな」

「違いますよ。あの人全員に挨拶して回ってますけど、挨拶以外で話す人は限られてますもん。人のこと分けてるんですよ」

それはあんただろう。京子は心の中で突っ込んでいた。聖奈は、普段から笑わない。最近になってようやくお客様に接する時に口角を上げるようになってきたが、目は笑わない。だが、マネージャーやリーダーの斎藤友美に対しては笑顔で接している。飲食店の店員は明らかにバカにしている態度をとる。横でハラハラするのは、私の業務に入るのだろうか、と京子は真剣に考える。時給は変わらないのに。

「そんな風に見えないけどなぁ」

女子同士の会話で京子が大事にしていることは、「どっちつかず」だ。味方にも敵にもならない。話題を変えたくなっても、わかりやすく変えると、敵認定されてしまう。京子はキョロキョロしながら、話を変えるタイミングを計る。まだ話を続けたがっている聖奈へ興味がないのが伝わればいい。

聖奈の言っている事が気になったわけではない、と京子は自分に言い聞かしながら、数日、吉田を見ていた。朝から常に元気に見える吉田が、無表情な時間がある。休憩室の時間だ。京子より遅く休憩をとっても、京子より早く店に戻っていく。その30分ほどの間、普段は本当に歳上だろうか?と考えてしまうほど、元気で無邪気な雰囲気なのに対し、休憩室では落ち着いた女性を感じる。休憩室から出る時には、スタッフたちにはつらつとした声で挨拶をしている。挨拶以外で話をしているのは女性も男性も、限られた人数だと言うのは分かった。分けていると言うより、相手の対応に合わせている感じもする。そして誰とでも仲が良さそうな雰囲気で挨拶をするが、女性と話している時より、男性と話をしているときの方が表情が硬い。あらぬ疑いをかけられないため、だろうか。

「センキュー!ハバナイスデー」

吉田が、道を聞かれて答えていたようだ。感謝の声が大きい。京子は英語が出来ない。今のインフォメーションで対応できるのはリーダーぐらいだ。吉田が英語で道案内をしているのを聞いた通行人が、わざわざインフォメーションに来た事がある。

「さすが駅直結だけあるね!案内する人の英語の発音がいい」

吉田が黒のジャケットを着ているからだろうか。エキモのスタッフと間違えられている。京子が違う、と訂正する前に、通行人はそのまま改札に向かう。

「あ、ありがとうございます」

京子の声は賑わいにかき消されていく。



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北山 悠【主役力で小さな経営はうまくいく】
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