受付嬢京子の日常⑱〜ワインの澱
「シフト代わってもらって、助かりましたぁ」
「いいよいいよ。ほんと大丈夫だった?」
沢木佳奈が両手を合わせる。眉をハの字にしても可愛いなぁと原田京子は思う。2日前、佳奈の代わりに京子が出勤した。京子たちが働くのは、駅の直結施設のインフォメーションだ。佳奈の実家で飼っている猫の様子がおかしく、病院に連れて行きたい、と連絡があった。佳奈も1日違いで休みだったので、シフトを交換したのだ。
「はい。なんか風邪だったみたいで。今日はご飯も食べてるので、大丈夫だと思います。ちょっとおばあちゃんなんで、心配で」
迷い込んできた子猫を飼い始めて15年。家族なのだ、と話す佳奈がいかに猫を大事にしているのか伝わってくる。京子の実家は母親が動物の毛のアレルギーがあり、一度も動物を飼ったことがない。犬や猫を飼う家が羨ましかった。
「一人暮らしをしたら飼おう」
高校生ぐらいまでそう思っていたことを思い出す。
「早く元気になるといいね」
“家族の不調”に対して何を言ったら良いか、上手い言葉が見つからずに、京子は複雑な顔しかできない。佳奈もまた、心配な表情のままだ。
「はい。おはようございます」
大きな男性の声に2人はハッとした。館長の長谷川だ。開店時間が近づいている。
「おはようございます」「おはようございます」
長谷川は京子と佳奈を横目でじっと見る。体の向きは離れていく方に変えているのに、顔の向きだけ残して様子を伺うような動きに、京子と佳奈に緊張が走る。細かいところに気づく人だが長谷川に他意はないと、京子はわかっている。だからこそ、自分たちの行動そのものが評価の対象になっている怖さがある。
「受付は見た目と愛嬌」
などという社員も以前いた。そういう評価軸の場合は、身ぎれいにし、ニコニコしていれば、文句を言われることはない。「どう仕事をするか」という対象に入っていないからだ。
長谷川は、「受付は施設の顔であり、おもてなしの要です」と着任してすぐに言った。何より受付に求めるものは「機転」で、身ぎれいにしていることも、笑顔でいることも、最低レベルの当たり前なこと、だと。
京子は受付の仕事についてから明確に怒られたことがなかった。身ぎれいにして、笑顔でいるのは得意だった。その京子に長谷川は、「気が利かない」と一刀両断した。「言われたことだけやってたらいいのかな」と疑問系で投げかけられ、今日この背中に汗が流れた。
隣にいる佳奈は「いつも口が開いている」と言われていた。社員であるリーダーの斉藤友美は、「指導が足りてていない。何を思って指導しているのか」と毎月注意を受けている。
できるだけ長くこの施設、エキモで働いていたい、と京子は思っている。思っていながら、長く働くための「受付嬢の仕事」がわからない。
午後になって、片岡聖奈が出勤してくる。手入れの行き届いた髪、きちんと化粧をして、にっこりと笑う。3ヶ月前とは別人の同僚に、京子はモヤモヤする。自覚しつつ、いまいちつかみ切れていない感情だ。
「おはようございます。はい、これ」
マネージャーの山内が以前は持ってこなかったチェック表を持ってくるようになった。ぎこちなく、口角を上げる。
これはいつからだろう、と京子は思う。聖奈が一緒に晩御飯を食べに行ってからだろうか。チェック表はオープン以来ずっとインフォメーションが事務所に取りにいくものだった。持ってくるのは」山内だけで、他の社員の時は取りに行くのは相変わらずだ。マニュアルが変わったわけではない。聖奈の顔を見に来ているのかもしれない。聖奈もまた、山内が来ると、わかりやすく視線を送るからだ。聖奈がきちんとし始めて、注意しているところは見なくなったな、と改めて思っていた。
受付の仕事は、聖奈のようにすること?聖奈のようにってどう言うこと?
ワインの底のおりのようだ、と京子は胸に手を当てた。