受付嬢京子の日常⑩~1人暮らし
「横、いいですか?」
原田京子は休憩室で吉田を見つけた。普段2人1組で休憩に入る京子は、同じ受付のメンバーとしか一緒に昼ご飯を食べたことがない。今日は一緒に食べるはずだったリーダーが上司に呼ばれた。長くなりそうだから先に言っていてと送り出された。吉田は京子が働く施設の店舗のスタッフだ。普段はあいさつ程度しかしていない。でも、今日は声をかけたくなった。
吉田が顔を上げてほほ笑む。合意と受け取って京子は椅子を引いた。
「今日お子さん、来てましたね」
午前中に、大きな「ママー」という声が聞こえて、顔を上げると、吉田の前に3人の子供が立っていた。吉田が手を取って笑顔になるのを京子は見ていた。結婚していたんだ、と意外に思った。生活感がないから、独身だと思っていたのに、と京子は話を聞きたくなった。いつもならプライベートな事情は聞かないようにしているんだけどな、と心の中で言い訳をする。
「あ、見られました?」
「はい、ばっちり。独身だと思っていたので、ちょっとびっくりしました」
吉田が苦笑いを浮かべる。
「姉の子なんです。あの子たち」
「え?ママって・・・」
京子はどう反応していいかわからない。
「実は、今、姉と一緒に住んでるんです。あの子たち最初は私のこと『洋ちゃん』って名前で呼んでたんですけど、一番上の子が、間違えて『ママ』って言ったことがあって」
その時のことを思い出しているのか、吉田がフフフと声を出さずに笑う。
「ありませんでした?先生に向かって『お母さん』って呼んじゃうことって。姪っ子まだ5歳なのに、そんな感じの微妙な顔したんですけど、そのあとすぐに『そっかぁ。洋ちゃんのことママって呼べばいいんだぁ』って言いだして」
吉田があまりに楽しそうに笑うので、京子もつられる。
「お姉さんはなんて呼ばれてるんですか?」
「『かぁ』って。私たちも子供のころそうやって母のこと呼んでたんですよ。だからかな」
「ご実家にお住まいなんですね」
吉田が姉と暮らしているということは、実家で暮らしているということだろう、と京子は考えた。ただ、その予想は外れた。吉田は最近まで一人暮らしをしていたらしい。姉夫婦は結婚と同時に転勤で離れていたという。子供を3人目を授かったタイミングで、吉田たちの実家の近くに家を買ったそうだ。
「姉は仕事もバリバリしたいから、思い切り頼るつもりだったんですよ、母を」
でも、と吉田が続ける。吉田の両親は突然田舎に大きな家を買って移住してしまったらしい。姉妹が育った実家は、その田舎の家を買う資金にするため、早々に売却されてしまったという。
「その上、義兄の転勤が決まって、助けを求められまして。実家もないから近くに住む場所もないし、断ろうと思ったら一緒に住もうって。姪っ子たちが将来使う子ども部屋を使ってます」
吉田はにっこりと笑う。吉田が早番が多い理由だった。以前は違う部署にいたらしい。残業も多く助けると言っても、何もできないと吉田は考えた。それならいっそと、早く帰ることを条件に付けて、異動願を出したという。子供たちのお迎えと晩御飯づくりを担当している、と。
「手取りは10万ほど減っちゃいましたけど」
何でもないようにあっけらかんと言う。京子は理解できない。
「そんなに減ったんですか?なんでお姉さんのためにそこまで…」
素朴な疑問だった。
「姉、仕事ができるんです。掃除も得意。でも、料理は嫌いなんです」
吉田はさらっと言った。当たり前のことを話すように。
「それに私にもメリットがあるんですよ。今、私は家賃も、光熱費も、毎日の食費も払っていません。」
1人暮らししている間のその経費を計算したら、18万もかかっていたと言う。だから、10万手取りが減っても、自分にとってはプラスなんだと。
「もちろん、外食も含めてだったから丸々8万じゃないですけど」
京子の頭の中で計算機が鳴る。吉田ほどじゃないにしろ、一人暮らしの自分も月々相当かかっている。その生活を維持していくために、この受付嬢の仕事は続けたいと思う。手取りが10万も減るなんて考えたくもない。そう思いつつ、頭の片隅で吉田はきっと高給取りだったんだろうな、と思う。自分の手取りから10万もなくなったら、ワンルームの家賃が払えるかどうかだ。そんな大きな決断はできない。そう考えを巡らせながら、ふと思う。
「吉田さん、お兄さんが帰ってきたらどうなるんですか?」
今の生活は義兄という存在がいないから成り立つような気がする。まだ新築の家に吉田姉妹は子供と住んでいるのだ。
「一応3年は行ってるはずなんですけど…そうですね。その時はまた異動願かな」
異動が叶わなければ、転職すればいいし、と吉田が言う。
「今、姉たちと暮らせててよかったなって思ってるんです。早く寝るから肌の調子もいいし」
冗談めかして吉田が言う。京子は吉田のことをもっと知りたいと思った。姉のことを仕事ができるというが、京子から見れば、吉田自身も仕事ができると思う。京子が働いている施設エキモでは毎月の売り上げと客数が算出され、事務所に貼られている。受付嬢である京子たちは事務所には入らないが、グラフが事務所のドアから見えている。吉田の店舗は吉田が働き始めてから少しずつ、業績が上がっている。マネージャーたちの話も耳にする。
「お疲れ様です」
リーダーの声がする。気が付いたら昼休みが残り15分になっていた。
「斎藤さん、お疲れ様です。じゃぁ、原田さん私はお先に」
吉田が立ち上がる。
「洋さん、お疲れ様です」
京子はとっさに出た自分の言葉に驚いた。今まで吉田の名前を呼んだことはない。頭の中で「洋ちゃん」が響いていた。吉田がくすっと笑った。ぴんと背筋を伸ばして、吉田が去っていった。
隣に座ったリーダーの斎藤友美も一人暮らしだ。吉田のいうところの1ヶ月の「経費」を聞いてみたくなった。