受付嬢京子の日常⑭歩き方
山内敏行は、歩いていてなぜ歩くスピードが一緒なのか、と考えていた。3メートル先に、勤務先の施設に向かって歩く女性を見つけてからすでに5分は経っている。身長は20センチ以上自分の方が高いと思う。歩くのは早い方で、普段から自分のペースで歩いていると、前を歩く人を追い越すのが常だ。それなのに、3メートルが縮まらない。
女性は目立つ格好をしているわけではないのに、目に飛び込んできた。背筋をピンと伸ばした歩き方のせいだろうか、と山内は考える。施設の入り口が近づくと、スピードが落ちたのか、少し近づいた。「あまり近づいても気まずいな」と考えながら、目が離せない。
視線の先の女性は、カードケースを出すと鉄の扉を開けて、入ってしまう。IDカードを出して山内も建物に入る。すでに女性の姿はない。扉から一度曲がり角がある。そこまで歩くと、さらに10メートル先の角を曲がる女性が見えた。異動でこの施設に来て1週間ほど。何度か事務所の前で挨拶したことがある女性だったはずだ。
山内敏行は異動と同時に「マネージャー」の肩書きがついた。これまで施設に企業を誘致する部署にいた。施設で集客や販促にじっくり関わるのは初めてになる。1週間施設を歩いていて、疑問や違和感がある。その度に、以前からマネージャーとして在籍している木嶋悟に相談をする。木嶋は真面目で答えようとしてくれる。それはわかってても「慣例」「そう言う事になっている」と言う回答が多いのは問題ではないのか。どうやったら変えられるだろうか。来月、館長が変わる。その後が、替え時だ。それまで、自分が気になるところを具体的にまとめておかねば。考えながら歩いていると、気づけば事務所に着いていた。
2日続けて遅番の原田京子がエキモに出勤する。京子は歩きながら、昨日とは違う、とホッとしていた。前日はあまりに忙しすぎた。同じ日に迷子が3人目。さらに、道案内の回数も数えられないぐらいだ。落とし物が6件。電話で忘れ物の問い合わせが2件。日曜日とはいえ、インフォメーションの4人がフル稼働し、マネージャーの木嶋も何度も手伝ってくれた。新しく来たマネージャーの山内も一緒に迷子を探していた。制服に着替えて、デスクに立つ。
「昨日、4万6千人超えてたらしいですよ」
早番の沢木佳奈が言う。平日の1.7倍近い。忙しくなるわけだ。そんな数字聞いたことがない。昨日は外国人のお客様も多かった。ツアーが重なったのだろうか、と京子はイベント表を見た。舞台のイベントに合わせてアジアの観光客が増えることもある。
「昨日喋りすぎて、喋りたくないです」
重ための前髪から覗く上目遣いが、可愛いなぁと京子は目を細める。2歳しか歳下じゃないのに、佳奈の可愛らしさは何だろう。前に休憩中に「モテない」と言っていたが、そんなことはないと思う。誰がみたって守ってあげたいタイプの女子だ。
「お疲れ様です」
京子は見上げる。マネージャーの山内だ。無表情で身長が高いせいか、少し怖いと思う。
「昨日の報告書の内容なんですが、確認したことがあって」
京子が説明すると、すぐに納得したようだ。口角を上げる。木嶋のギュッと口に力を入れるのとあまり変わらない。この会社は笑うのが苦手な男性ばかり雇うのだろうか、という考えが京子の頭をよぎる。今の館長は人懐っこい笑顔の持ち主だと思い出して、考えの間違いに気づく。
早々に歩き出した山内が近くの店舗に向かうのが見えた。正確には、その店舗の前に立つ女性スタッフに向かってだ。人通りの少ない日でも吉田洋子は楽しそうな顔をしている。山内が1メートルの距離まで近づいたところで、気づいて挨拶をしている。よく知っているような笑顔だ。京子は、その笑顔が挨拶プラスアルファで喋った相手なら、全員に向けられることを知っている。洋子は仕事をバリバリこなしている女性だと思う。その一方であの笑顔で親近感が湧く。誰でも知り合いのように見えてしまう。人懐こいのかと思いきや、仲良くなってくると一定の距離感に気付く。洋子が話を聞きながら、時折真剣な表情をしてうなづく。笑顔で応じる。
「新幹線の乗り場ってどっちですか」
京子は道案内を始める。時折真剣な表情をして、最後に笑顔で見送る。洋子の表情をトレースしているのが自分でも分かる。インフォメーションに派遣され始めて2年4ヶ月。クレームを受けて疲れることもあった。マネージャーの木嶋のフォローで何とか切り上げてもらうことが何度かあった。ここ数ヶ月、クレームが来ても、短時間で済むことが増えている。洋子にクレームを受けた時の相談をしたのは3ヶ月ほど前だった。
思えばあの時はすでに、電車で洋楽を聴き、洋子の真似をしたいと思っていたんだな、と振り返る。仕事をし始めてからは特に人と深く関わらないようにしていた。インフォメーションのリーダーを除いて、プライベートで会うこともない。休憩中の会話も深掘りしない。女子が多い場所では誰かと特別仲良くなるのは、危険だ。何となく仲がいい人もいるけど、誰とでも同じぐらい話す、がちょうどいい距離だ、と京子は考えている。洋子といるとその警戒心が薄れる。親近感を持って接してくれていても、一定の距離を保って踏み込んでこないと分かるからかもしれない。
洋子と山内が話しているのを見てふと思い出した。冬には熱心にアプローチしてきていた本社の男性がここのところ来ていない。洋子を落とせないと分かって諦めたのだろうか。そんなことで仕事に来る頻度を変えるってどういうことなんだろう。派遣会社にいていくつかのお店や会社を経験すると、みんなが真面目に仕事をしているわけではない、というのが見えてくる。
短大を卒業して最初に勤めた小さな会社が潰れてしまった。派遣会社に登録したのは23歳の時だった。派遣先でいつか正社員に、と考えていた。1日だけの派遣をしながら、最初に継続的に派遣されたのは、事務経験があったから。1年後「頑張ってくれてありがとう」の言葉とともに、派遣が終わった。育児休暇をとっていた正社員が戻ってきたからだ。その次に行ったのがデパートの派遣だった。子供服売り場や化粧品売り場、雑貨の売り場と同じデパートの中でいくつかの場所に呼んでもらった。イベントの派遣も含めると週に5日同じデパートで働いていた月もある。子供服売り場に週に3回呼ばれるのが続いたが、突然シフトが減った。結局どの場所も社員やメーカーの人間が少ないところに週に1回か2回欲しいだけだった。派遣会社の担当者に話をして、同じ店に週3回以上行ける派遣先に変えてもらった。デパートの中にあるブランド店だ。時給が破格だった。それなりの服装をしなければならない。ハイブランドだし、と最初は気合を入れていたものの、店頭にいるのだから、とブランドものを持つようあまりに勧められるので、時給が高くても意味がない。3ヶ月我慢してから担当者に相談すると、ちょうどいいのがあるよと勧められたのが、インフォメーションでの仕事だ。
受付嬢は物を買えとは言われない。時給は1200円。ハイブランドの時給よりは低いが、業務内容から考えれば絶対にお得だ、と京子は働くことにした。月に10日休みがあるから、日数をそれ以上減らされることがないようにと最初の3ヶ月はびくびくしていた。先に派遣されていた受付経験のある山﨑美奈子が面倒見のいいキャラクターで助かった。さらに、正社員の斉藤友美もことを荒立てないようにするのが得意な人だった。最初はとにかく穏やかな1年間だった。後で聞くと、京子が現在働いているエキモは「経験よりも、とにかく安定して入ってくれて辞めない人」を欲していたらしい。京子が派遣される前にいた人材は夜10時までというのが嫌だ、と数ヶ月で辞めてしまうことが多かったと聞いて、ラッキーだったと京子は思う。タイミングが良かったのだ。
京子は、子供の頃から色が白くて目が大きくて可愛いと褒められていた。高校生まではその評価を信じて疑わなかった。でも短大に入ってみれば、自分など平均だと入学式の時に分かった。人並みの容姿で、受付をしたことがなく、接客経験といっても、あまり笑顔が得意ではなかった。研修初日は、リーダーがまゆゆに似た黒目がちな目をキラキラさせながら、「大丈夫。慣れるよ」と意味もなく励ましていたのを思い出す。
真面目に仕事をしていれば正社員になれる、なんてもう思っていない。正社員こそ真面目に働いていない職場もたくさんあるのだから。そしてエキモに来て、飲食店もアパレルも、正社員こそ疲弊していると裏側を知ってしまった気持ちになった。休憩室でのバイト、正社員双方の愚痴が聞こえてくる。どっちの立場がいいとは言えない。京子はこの時給の仕事を無くさないように、それだけを考えて歩いてきた。
それなのに、洋子を見ていると「もっと工夫ができるかも」と思う自分がいる。「近づきたい」と思う。それが、友人としてなのか仕事をする上でなのかは分からない。洋子の隣にいると、今まで手も頭もほとんど動かしていなかったんだと、痛感する。それが劣等感にはならずに、「何かできそう」という気持ちになるのだ。
京子は、視線を洋子と山内に戻した。山内が笑っている。初めて見る笑顔だ。
「あの人って笑えるんだ」