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私が「大丈夫」と言われてからいくつか変化があった。
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ひとつめ。自傷の衝動が止まった。
これは結構大きいかもしれない。学校から帰る道すがら、あるいは一人になったときの室内。
そういう“手を出すチャンスがある”タイミングで、前まであったような衝動と戦わなくてよくなった。ぼんやりしながらᎢ字カミソリで除毛をしていたら肌を少し切ってしまって、それにちゃんと嫌だと思えた。今のところは腕が綺麗なことは辛くないし、わざわざI字カミソリの売り場に足を運んで葛藤することもないのだと思う。
ふたつめ。感情のぶれが前ほど大きくなくなった。
あの「大丈夫」の次の日の夜、私は祖父母の家にいた。祖父が発熱していると祖母から連絡があったのだ。聞くと、体温37.9℃で頭痛がすると言うのである。例の流行り病か、はたまた風邪か、熱中症か。発熱と頭痛以外の症状はないと言うから、可能性はそこまでしか絞り込めない。
簡易の検査キットは自宅にあったものの、ビニール手袋もN95マスクもない(ある意味当然だ)。仕方がないからビニール袋(手袋の代わり)と不織布マスク、去年の実習で使っていたフェイスシールドを持って、徒歩30秒のところに住んでいる祖父母のところに向かった。
そして検査をする、のだが手間取る。何せ他人の検査なんてしたことがないのだ。数年前に自分で一度したきり。それでも一緒に来ていた母親は、あれこれ迷う私に「看護師さーん?どうなってるんですか?」と煽ってくる。私が手袋として使おうとしていたビニール袋を廃棄用にし、間違ってそこに手を突っ込んだときも「衛生観念めちゃくちゃやん」と言う始末。
うるさいな、としか思わなかった。母親への苛立ちも確かにあったけれど、それも大したものではなかった。だって私まだ看護師じゃないし。他人の検査とかしたことないし。教わってもいないし。上手く開き直れた私に、やっぱり大丈夫だと思えた。水分補給をしたがらない祖父にお茶を渡し、私は家に帰った。
次の日、何事もなかったように祖父の熱は下がった。暖かすぎる部屋で脱水症状を起こしていたのだと思う。報せを聞いて胸をなでおろしたのは言うまでもない。
みっつめ。解離が落ち着いた。
感情がちゃんと自分のものに戻ったからなのか、五感は弱いものの少しずつ戻ってきている。見ているものをちゃんと自分の見ているものとして認識できるようになった。香水をつけたとき、深く息を吸って嬉しいと思えた。着ている服の肌触りを心地良いと思えた。
まだ弱い感覚もある(ご飯はまだ“美味しい”に結びつかない)けれど、長い間そうだったから戻ってきただけ上出来だと思う。いつか全部の感覚が元通りになってくれたらいい。
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ずっと1人だと思っていた。
親友とそれぞれの場所で、1人で生きていると思っていた。味方なんていないと、帰る場所なんてないと、そう思っていた。傷を晒したらナイフを突き立てられる。弱いところを見せたら叩かれる。他人は攻撃する存在だったし、弱さは隠すものだった。そうやってずっと生きてきた。
でも違った。深い傷の傍に佇んでくれる人がいた。「痛かったでしょう」と言ってくれる人がいた。当事者でも支援者でもない、ただそこにいる人がいた。
なぜあの日、あれほど素直に言葉を受け取れたのか分からない。私の心がそれだけ弱っていたからなのかもしれないし、何か他の“勘”みたいなものなのかもしれない。
“大丈夫”はまだ効いていてくれるだろうか。あと少し、私がこの家を出るときまで。
夢に向かって進む私の背中を押していてくれるだろうか。あと少し、頭の上に垂れ込めた雲が晴れ渡るときまで。