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Z世代

GenZ、generation z,日本語で言うならば“Z世代”は私のnote上の名前であり、1997年生から2012年生の世代のことを指す。(らしい)私はGenZど真ん中に生まれ、インターネットやソーシャルメディアの成長と比例するように年を重ねた。しかし、私の感性は決してGenZのそれではなく、多くの年長者、同世代、また下の世代から“変わっていて興味深い”と言われる。そんな私がなぜnoteに文章を寄せようと思い立ったか? それはGenZのリアルと年長者のいう“イマドキの若者”的なGenZの間にギャップを感じたから、そして単に文章というコンテンツに対する興味からである。

私とGenZ

世代区分である以上私がGenZであることは否定できない訳であるが、先述したように同世代とは大きな違いを感じると言われる。何が違うのか、今回の本題はこれだ。私の体感にはなってしまうが、“イマドキの若者”GenZは近い過去と近い未来の中で生きている、と感じる。

未来

まず未来について、これは多くの人が考えることと同じであろう。単に未来に希望が持てない、あるいは長いスパンの未来を想像するほどの余裕がない、またこれに近しいことに起因すると私は感じる。象徴的な事象としては就職活動が挙げられるのではないだろうか。我々世代の多くはキャリア設計をする中で何十年後を想像する訳であるが、この際に新進気鋭のベンチャーがあろうと、今後確実に伸びる成長産業があろうと、そもそも何十年後の自分、あるいは自身を囲う環境が存続、成長する見込みが薄い現代において、そのような遠い未来に期待する余裕はなく、より良い今を選択するという結果に多くの人が陥る。根本原因には我々GenZは日本の発展の影響をモロに受けていることが挙げられるだろう。なぜなら、我々を育てた親世代、祖父母世代が日本を豊かにした世代であり、我々世代は豊かになった日本で育ったからだ。それ故に我々は平和ボケを手に入れ、開拓心を失った、希望がない未来を自分たちでどうにかしてやろうという気概など消えてしまったのである。私からすれば遠い未来ならば変える余地があって面白いような気がしてしまうが、このあたりが変わっていると言われる所以なのかもしれない。

過去

次に過去について。これについては我々世代自身が近い未来に対する視点しかもっていない以上、過去についても同じ事が起こる、と言ってしまえば終わってしまうのだが。視点を変えるならば、GenZはプロセスにとことん興味がない。過去とは今を作り上げた過程であるはずなのに、その過去がGoogle,あるいはYouTubeで検索出来てしまうものであるが故か、そこに対して興味を持たない。しかし、より近い過去、言うならばより現代的で、今に直結しそうな、ゲームの攻略本のような情報には興味を注ぐ。また、時代や流行の変化スピードが速くなったことも勿論影響している。SNSがない時代などGenZにとっては古典、あるいは歴史の中の“古き良き”時代なのである。ルーズソックスブームの再来も、町中華が流行するのも“古き良き”を感じたい、イケてる時代の一端を感じたいという欲求を示しているだけであろう。これらより遠い過去はイケてない過去なのだ。

最後に私について、傍から見ると私は“変わっていて興味深い”らしい。年長者をものともしないその姿勢からなのか、流行を追わない偏屈さからなのか、その真意は定かではない。しかし、俯瞰して自分自身を見ると、GenZらしいなと思う所も多い。SNSの台頭と共にGenZはある特徴持ったと私は思う。それが「人と少し異なるという美徳」である。皆“異端児”にはなりたくないけれど、SNS社会におけるアイデンティティを獲得する程度に他人とは異なりたいのである。今こうして文章を書き連ねる行為がまさにそうであろう。別に私は文豪になりたい訳でも、直木賞や芥川賞、本屋大賞をとりたい訳でもない。しかし、文章というコンテンツへの興味から文章を寄せている。ここに最初に述べた「GenZのリアルと年長者のいう“イマドキの若者”的なGenZの間にギャップ」であり、私と所謂GenZとの違いがあるのだ。近い過去と少し違う事をして、近い未来を他人と少し違うものにする。それでいて、フォロワーから“引かれない”ようにする。これが本質であろうと思う。他人から面と向かって言われる程度の“変わってるね”は我々世代にとって誉め言葉なのである。今回はこのような言わばアウトラインで終わりにして、今後も様々なトピックにおけるギャップを勝手に書ければと思う。―GenZ

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