「テスト」について考える
テストが多い。学校で働いてから感じていることだ。自分が学生の時の経験はあまり覚えていないが、明らかにテストの数が多い気がする。1週間に一度は何かしらのテストがあるわけで、その結果に一喜一憂している様子をよく見る。授業中によく聞かれるキーワードは
「そこテストに出るんですか?」
である。この質問をされるたびに「テストに出なかったらやらないの?」と尋ねると黙るのだが、もはやテストが彼らの行動理念になっていることは間違いないようであった。
私が担当しているのは中一と高三で、いわば学校の入り口と出口である。中一はまだ学校の文化に染まりきっていない生徒も多いが、高三になると完全に染まりきっていて、もうテストがないと、点数がないと頑張れないような身体に、脳になってしまっているように感じる。高三は大学に進学していくが、大学がそんな感じで通用する場所ではないと老婆心ながら思っているのであるが、忠言は耳に逆らうのか、やはりテストありきでの関係性のような気がしてならないのだ。どこが出るか、どういう勉強をすれば点数が取れるか、そんなことで生徒のご機嫌をとることもできる。逆に言えば点数を、成績を人質にとるみたいにして、極端に言えば逆らえば進学できなくなるといった脅し(自分はそんなことしていないが)ような口ぶりで無理やりいうことを聞かせるようなそんな構造がある気がしている。
本来テストの機能を考えてみると、自分の今の到達点を確認するものであり、自分が今どこができて、どこができないのか、それをわかるためのものであるはずである。それで十分じゃないか。成績の管理であったり、合格不合格を決めるために点数の要素が加わって、結果で、点数で一喜一憂するような、高い点数を取れば自分がさも素晴らしい、賢いような気がするし、点数が低ければ人間失格、自分がダメなやつであるかのような気さえしてしまう。そんな場面に出くわすのだった。
つまりテスト本来の機能だけを抽出するとすれば点数はいらないのである。点数をつけるのは大人の都合である部分が大きいと言える。点数はあくまで副次的な要素でしかなかったが、学校にとって教師にとって生徒にとって、点数がテストの本質であるかのような倒錯現象が起きていると言っても過言ではない。少なくとも自分が働いている学校がそうである。点数でクラス分けのクラスが決まるし、生徒はなんとなく自分が「できる」クラスあるいは「できない」クラスにいることを自覚して、中学一年のその段階で自分が「できる」のか、「できない」のかを決めつけてしまっている。その時点のテストの点数だけで、である。
戦後日本社会において過度な競争に晒されてきた学校教育であったことは歴史的に証明されてきているが、その熱は徐々に冷却されていったといっていい。その要因としてはいくつか考えられるが、少子化による競争に挑む生徒数の減少であったり、人格を否定するようなハラスメントが横行していたようないわゆるスパルタ教育はもはや今日的なものでなくなってきている。これは良いことだと思う。しかしながら、エリート主義的な発想は形を変えて現代にも息づいており、わかりやすいところで言えば、自分が勤務しているような大学付属の学校もそうであろう。卒業までに何百、何千回ものテストを、競争を経て最終的に大学入学までこぎつける。ゴールの大学は世間一般的に言えば権威づけられたような大学であり、確約とまではいかないまでにも、社会的な成功に近づけることが約束されている。もちろん大学はゴールではない。むしろ学問のスタート地点だといえる。しかし過度な競争に晒されて、命からがらたどり着いたその先を見据えているのだろうか。
点数至上主義の過度な競争がもたらすのは、点数を取ることに特化した、規範づけられた頭の使い方、あるいは「クリエイティビティの喪失」と、それから「精神的な摩耗」であろうか。前者は「点数をとるための勉強」を強いられてきた彼らが、新しい何かを生み出すような方向性、指向性をもつことができるのだろうかという懸念である。それから「精神的な摩耗」中学高校6年間の箱庭の生活の中で、ひたすらテストを繰り返し勉強するこの生活が生徒の精神状態にいかに作用するのか。
勝負には勝者と敗者がいる。点数をつけるとはそういうことである。勝てたら良いのかもしれないが、点数のみの判断で「勝った」自分が何者かであるような壮大な勘違いをすることもよくないし、自分がひたすらに「敗者」の烙印を押され続けることが果たして良いことではない。つまりこの競争には勝者はいない。みんな平等に不幸になるシステムだと言える。
自分がこういった構造に忌避しているのはやはり、自分の被教育経験と大学、大学院でフィンランドで見てきた、自分が良いと思った学校があるからだと思う。ここでの教員生活はどうやら長くなさそうだと思った。