散歩してきました。

生きることが人生の学校ならば、良い地球にしよう、というのは良い学校にしよう、ということなのかもしれない。

のんびり年末

府中市美術館へ行き、小西真奈〝Wherever〟を観てきました。
色彩が美しく、ダイナミックな印象がしました。日本の風景でありつつ、それが普遍性に昇華されている感じを受けました。〝どこでも〟画家は絵画に表現出来るのかもしれないと思いました。

干し柿を食べました。コーヒー飲みました。カップラーメンラクサを食べました。

間食です。

これからは「買う」「食べる」「見れる」「遊べる/体験する」「撮れる」
のマーケティングの五つの要素に、
lecture「講習する」も入るのではないか、と思った。

ほんとうのものが、世の中に受け継がれ続けるのであれば、じっさい自分がどれだけほんとうのものに近づけたかが問題であって、たとえ自分が肉体として消えてしまったり、自分の想像したことが、いや、人間の想像の成果が消えることは無い。
風となり、雨、土となり、空気となり、世界を紡ぎ続ける。

せっかく芸術をやっているのに、〝名を残そう〟というのは物質的価値観なんじゃあないか、と。(ワシは思い始めた🙃💧💦)

よく眠りました。😊

ルイーズ・ブルジョワ展における〝アートにエンパワーは必要か〟(この場合のエンパワーというのはどうやら〝元気になる〟という意味らしい)ということについて。
自分が思うのは、厳密な言い方をすれば、芸術というものには、魂の根源的な何かがあるように思っていて、それで元気づけられないのなら

アーティストは魂の根源に何か人に伝えるには、偽りがあるのではないか、と思う。それはその人自身も、本当にやりたいことなのか、という事を分からないままやっているのではないか、と思う。そうした作品はその時にもてはやされても、長い目で見ると、どうなのだろう、とも考える。

ただ歴史上で考えれば、残ってきた作品というものは、〝エンパワー〟がある作品が多いのではないだろうか?美術的価値とも言えるのかもしれないが、そうした観た時に、何程かの感性を伝えるのが、結局残ってきたようには思う。

〝エンパワー〟の反意語は分からないが(〝ダウナー〟?)、そうした作品は、そうした嗜好をする人の慰めにはなるかもしれない、と個人的には思う。またはその反〝エンパワー〟が歴史文脈に於いて重要な位置を占めているのならば、より大事にも観られるかもしれない、と感じる。

僕もルイーズ・ブルジョワ展を観たが、正直、「これなら俺にも出来る」と思い、あまり関心しなかった。というのは、愚痴の撒き散らしのように感じたからだった。それで、特にこれが大事なのかもしれないが、受け取り手の事を何も意識していないように思えた。アウトサイダーアートではあると思う。

アウトサイダーアートはそれはそれとしても、僕が今日まで気に入らない事は、狂気こそ芸術である、というような文脈を感じる所だ。僕が思うのは、狂気というのは、一般常識という尺度から測ったものであるので、それは時代に於いては変化してしまうものであると思う。だから、狂気を元に芸術を見るのは

危険なことであると思う。
芸術に於ける、たとえば〝美〟のようなものが話し合いもされない芸術というものに、未来を委ねるのは、恐ろしいことではないか、と思う。
常識を逸脱してしまう事はあるだろう。それはだが、(過剰に)意欲的に行う事なのだろうか、と、割と僕は思う。

そうした事を考えるのは、僕自身が統合失調症を抱えながら、芸術の中にも道徳を見出そうとしているからなのかもしれない。それは僕にとって、つくることは、社会との接点でもあるからだと思う。だから、ルイーズ・ブルジョワ展を観た時は、「こんなに愚痴ってよく受け止められたな」と思った。

それはある意味では羨ましかったし、ある意味では、可哀想だと思った。きっと誰もルイーズという人に〝回復〟を要求しなかったんじゃないか、とも感じた。もしかしたら、作品を受け止めることが〝回復〟への誘いだったのかもしれないが、その当事者に生産させ続けるのは、苦ではなかったか、とも思う。

「芸術に道徳を求めるなんてつまらない」というのは、おおよそもう嗜好品なんだと思う。

僕は嗜好品の寄せ集まりに統合性を見出せるものなのか疑問である。(と、統合失調症の自分が言う。)

漫画の「H2」の一巻冒頭で、サッカー部に入部した主人公が「お前可愛く無いぞ」と先輩たちのしごきからへたばらなかった所を読んで、本当に日本社会ってこういうの多いよな、絵の学校もそんなもんだろ、と思った。

散歩してきました。

「じゃあ道徳的な作品がいいのか?」というのとも違うと感じる。
その人の中の道徳性が作品に出る、と、そういう作品をアーティストが手放して出した時に柵のようなものが、アーティストの道徳性たらしめる、としか、言いようが無いようにも思うし、アーティストはそこに祈る(祈りたければ)しか無い

🙄

🙂

そういう意味では、自分も〝傷つき過ぎた〟と言うのはあまりよく無いんだなと思う。

🙃💧

若者が格闘漫画離れしているように思う。良いことに思う。

朝の5人戦隊ものや、仮面ライダーなどは、おおよそ形而上の、正義とは、というお話であるので、そんなに昔から本気で観てない。(母の影響)
✍️🙃…
そういう日本のローカライズとしての商品ってそれはそれで有った方がいいものなんだろうか。(分からない)

水戸黄門と同じなのかもしれない。

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