道徳無き所に哲学は無い。
「シビル・ウォー」(映画)の感想は、何かバランスの悪い映画だったな、という(感)
僕は(殆ど)麻痺社会なのではないかと思う。大人たちが麻痺している、僕もかもだが、神経が麻痺にあたるような感覚の中で、互いの状態を安心確認しているだけのフィクション(虚構)をコンテンツ(情報)として共有し合うだけの関係化社会であるように感じる。
つまり〝目的〟の為が増えすぎている。
アニメーションは、そうしたコンテンツのひとつと化してしまったように思う。
つまらないことはおもしろく、おもしろいことはほどほどにおもしろく。
僕はUNIQLOよりもしまむらで買い揃えた服の中の方が近代的なものがあると思う。
そう思えるのは、ブランディングされ無きブランディングの方が哲学があると思えるからで、そもそものリーズナブルで大衆化されたものよりも、意図としてコラボレーション(可能の中のコラボレーション)したものの方が哲学の比重が重いように感じるからである。_φ(・_・
そういう意味では、これから先リサイクルなどで服を再生産した方が衣類の哲学は意図としての比重を有していると思う。
これ食べちゃおう😄
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そういう意味では〝編集をしない〟ということが一番のサービスではないかと思う。
🎄
でもおかしいな、🤔
水木しげるさんの本や、美輪明宏さんの歌の中には従軍慰安婦の話は出てくるんだけどな…
🤔
核廃絶や反戦の話は当然大切なのだけど、こういう話こそ当事者から聞かないと分からない部分も多いのではないだろうか。
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僕は自分はミニマリストとは違うと思う。
もの(事)の小数点を数えてゆく。
もの自体は有っても良いと思っている。
哲学というのはこの世界における普遍的に益をもたらす発明のようなものであると思うので、〝哲学重視〟などと述べるような経営者や、それに及ぶような哲学者や思想家というのは、(〝哲学学〟となり)おおよそというかほぼ意味が無いと思ってる。
うちにはそんなフォトスポットのようなアーティスト部屋は無いよ
日本には〝リーダー〟というものが無い。
概念として無い。
将軍や長、経営者や社長や監督、代表などなど居ても、〝リーダー〟はいない。
先生やガイドやアナウンスや司会は居る。しかし〝リーダー〟はいない。
公的な所には居ない。
「縄文のデザインが」とYouTubeを見てたら縄文について語られていた編集者が居て、いや、縄文時代は文明が無かったんだからデザインは無いだろ、と思った。
ひとりひとりの心の形が縄文土器などに現れているだけであって、そこに模倣性があったとしても、農耕文明が栄える以前であるのだから民にとってのふつうの形とされるデザインなるものは無かったと思う。
道徳無き所に哲学は無い。