怪我とケニアと偽善
肉離れが教えてくれたことー
ある程度真剣にサッカーをしだしてから、初の公式戦2日連続というのがケニアでは、普通にあった。しかも3週連続で、土日2連戦。その1週目、2試合目が終わり普通に軽く肉離れをした。1試合90分間を走り切ったら、次の日には筋肉痛と身体のあちこちが痛む。こっちのグランドは土で硬いから、普通に走っているだけでも足腰に負担は大きいし、転けるとその分身体に衝撃が来るので、日本でプレーしていた時よりも、次の日の身体のバキバキ度は酷い。その状態で、次の日の2試合目も90分間フルタイムでプレーしたら、そら軽く肉離れもする。
別に歩けるのだが、足をつくたびに痛む。プレーしようと思えば、出来るかもしれないが、この状況でプレーして、怪我が悪化して長引くのもなぁ、とも思う。難しい具合だ。日本にいる時は、小学生の頃から通っている大先生がいる鍼灸院があったから、そこで出来るか出来ないかを診てもらい判断していたが、ケニアでは整骨院はないので自分で判断するしかない。アスリートにとって怪我は痛み以外の苦しみがある。それはこんなところで怪我をしている場合ではないという焦りもあるし、あの時に...のような後悔も出てくる。今週も2連戦があり、僕にとってはケニアでプロになるための大事な1試合なので、出れないかもしれないという負の感情が出てきている。竹原ピストルさんの歌詞で言う「タバコがあるのに火がない」そんな状態だ。
サッカーは約20年間続けているから、完全に人生の一部になっている。その歯磨きと同じくらい習慣になっているサッカーを少しでもやらないとなれば、ムズムズして気持ちがわるい。気分も少しずつ落ちてくる。それほど今の僕にとってサッカーは人生の一部になっている。今後サッカーを引退しても、サッカーは人生の一部だろう。
「焦ること」と「焦らされること」は違うー
何事も焦らされている時にはうまくいかないという事を知っているので、一度止まって考えて見ることにした。今は負の感情がでてきていて、やるべき事がハッキリしていないので、まずは感情を整理し、やるべきことを明確にした。ここでの判断に、重要になってくるのは、目的地と時間軸である(目的地は自分が辿り着きたい地点)。大学2年生の頃に鎖骨を骨折した時は、動けないから諦めて、とりあえず治すしかないと、すぐに理解できたが、こういう出来そうで出来ない怪我は、精神的なモヤモヤが付き纏ってくる。そこで、先ほど挙げた目的地と時間軸を再確認することで、今何を考え、行動するべきかがハッキリする。僕の場合は、ケニアでプロになる事をサッカーでの1番の目標にしている。だから、この試合に出たい気持ちもあるが、目先の利益に焦らされてはいけない。嬉しいことに、ケニア人の仲間や周りの人が「お前が必要だ」と言ってくれる。でも、それは周りの声で、自分の声ではない。自らアクセルを踏んで焦ることは問題ないが、周りの要因により無意識的に焦らされているときは、自分を見失う危険がある。
これは、この状況に限ったことではない。あらゆる場面で、周りの声が気になり、その声をもとに何かの判断を取ろうとしてしまう。でも、そこで周りの声をシャットダウンして、自分に目を向けたらおのずと見えてくる。自分のやるべき事は自分にしか分からない。
怪我をしない事が確かに良い事ではあるが、ポジティブに捉えると怪我をする事でしか見えないものある。シーズンが始まると毎週試合があり、その試合に向け1週間を過ごし、試合をして、また次の試合に向かう。このサイクルだとなかなか自分を俯瞰して、今の状況を整理出来ない。だが、怪我をする事で、強制的にスピードが落ち、見るべきものが見えてくる。そして、怪我をした時にしか見られないものがある。ここに書いてることも、今こうして怪我をしたことで少しスピードが落ちたからこそ、自分を俯瞰し、ここに辿り着いた。ネガティブに感じていることは、マイナスの要素だけではいない。
周りの声と周りの自分
周りの声と上手く付き合えれば、自分のやるべき事を見失うことないだろう。そう思う一方で、気をつけたいのが、逆に周りの声の「周り」に自分がなっている場合もあるということ。わざと相手を苦しめるための言葉を掛けたりする場合(これは完全に最悪)や自分が良かれと思って掛けた声が相手を苦しめている場合(これは気をつけよう)がある。心配だからと人の夢にブレーキをかけたり、経験したことのないことを危ないと否定したりなど、相手の状況や一次情報を把握していない自分勝手な偽善は自分以外は誰も幸せにならないように思う。
その状況において、何が正解で正しいかは分からないけど、何が正解かを考えること自体は正しいと思うー。