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よのなかよもやま寄稿:08 素直じゃないらしい私への、話が通じないあなたのご高説 ~私は団体生活不適合者らしいです~

「理屈っぽいな」

「屁理屈言うな」

「素直になれ」

これは異なる二人の、高齢者の人物から私が言われた全く同じ言葉だ。

そして私は言われたとき、こう思った。「なるほど、この人らには話が通じないな」と。

私は自分が性格が良い人間ではないとは自負している。

人から好かれる人を羨ましく思うことはたくさんある。快活な人、人を笑わせたたり明るくしたりできる人、世渡り上手な人……どうして彼らのような性格を自分はしていないのだろうかと、ときには嫉妬さえ抱くこともある。

しかしどれだけ妬んでも彼らの性格に自分がなれるわけではない。三つ子の魂百までというのだ、私はこの私と生涯をともにしないといけない。

ときに、『他人は自分を映す鏡』と言われることがある。

そして奇しくも同じ言葉を全く別の二人から得ることになった。

それが前述の言葉である。

「理屈っぽい」、「屁理屈言うな」……言い訳がましいということだろうか。

確かに、物事がそうなっている理由や意味を言葉という形に起こすことは好みではある。そういう側面が理屈っぽいというのなら、一定の部分は認めよう。

だが待ってほしい。私は「なんでそういうことをしたんだ」と言われたから、「○〇で××だったからです」と答えたわけだ。

そうしたら「屁理屈言うな」と腹立たしげに叫んで、「お前は理屈っぽいんだよ、そんなんじゃあ社会で生きていけない」と言われる始末である。なら私はどう答えればいけなかったのだろう?

そしてついには、「お前はもっと素直になれ」とのたまうわけだ。

この素直、とはいったいなんなのか。別に私はあまのじゃくでもツンデレでもない。

ここでいう素直とは、従順となれという意味合いに近いと思われる。

言い方があいまいなのは、私がそんな意味合いで素直という言葉を使ったことが無いからだ。

ならばと相手の要求にすべて「はい」、「わかりました」とだけ言って相手を全肯定していたら、

「そういう態度でいればいいんだよ、分かったか」

とありがたいお言葉をいただいた。

自分のような若造に生意気な口を聞かれるのがムカついたのか。とにかくご高齢の彼らは自分に従うイエスマンがほしかったみたいだ。

とにかく彼らとは話にならなかった。文字通り、『話』を作ることができなかったのだ。


覚えている範囲で、私にご高説を賜った二人のうちの一人との状況を書き起こしておく。

私はそのとき、とあるスポーツジムで受付のバイトをしていた。

受付業務は、受付が不在にならないようにと二人一組で常に勤務することになっていて、仕事内容は来客と電話対応、室内の掃除と施錠。とても簡単だった。

もちろん仕事が勤務中の最優先だったのだが、しかし人の動きには波があり、加えて特別繁盛しているわけでもなかったので基本的に空いている時間が多かった。他の人たちは読書やナンプレ解き、スマホいじりなど各々勝手に過ごしていた。

読書やスマホいじりの他に文章書きや動画作成など創作活動もやっていた私は、その時間を創作に活用したいと考えた。

創作は基本、パソコンで行っていたので、一応雇い主側に伺いを立ててみた。「空いている時間にパソコンの作業をしても良いですか?」

答えは「みんな自由にやっているから好きにしたら良い」だった。お墨付きをもらった私は、もちろん仕事に影響の出ない範囲でパソコンを使わせてもらうことにしたのだ。

私の相方になる人は何人かいたが、その中で一人の高齢者男性がいた(以下彼をAさんとする)。

Aさんは言ってみれば典型的な田舎の頑固おやじで、趣味と言えば釣りと畑、反対に読書や囲碁将棋などのインドア系の嗜みを「面倒くさい」といっさいしない人物だった。

そのためAさんは勤務中、時間をつぶす手段を何も持っていなかった。だから勤務中「まだこんな時間か」とか「おせぇなぁ、時間が経つの」と何度も言っていた。

しかもそれは私に投げかけているかのような声量だった。

彼の唯一といって良い手段は、他者との会話だった。だから来客やほかの勤務者と話を積極的にしに来ていた。

正直、肌感覚として私はAさんと相性が良くないのが分かっていた。Aさんは好きにはなれなさそうだった。

社会に生きていて、全員に好かれるなんてできないし、好きになることもできない。きっと10人いたら友人になれるのは2人いたら良い方で、反対に嫌い合う人は2人、互いに興味も関心もない人が残りの6人である。

会わない人とは必要以上に仲良くなる必要はない。だから話を振られたら会話はするものの、こちらからはあまり深入りせず、仕事に支障が出ない程度のコミュニ―ケーションを取るだけの関係でいた。

そんな折に一度、私のパソコン作業が気に入らないのか、私を見て「仕事を放棄して自分だけの作業をするな」と怒られたこともあった。

だが私はパソコン作業にかまけて仕事をないがしろにしたことは決して無かったし、来客や同僚へのあいさつは欠かさなかったし、同僚とも常識の範囲で世間話もする方だった。

だから私は「仕事もないがしろにはしていないし、あくまでも空いている時間での作業です」と答えた。そのときは、Aさんはおとなしく引き下がった。

それからしばらくして、またAさんとで仕事をしていたとき。

そのときは客は誰もおらず、私とAさんだけだった。

私が先に別の個所の掃除に行っていたので、もう一か所の掃除はAさんがすることになっていた。

Aさんが掃除か何かから受付に帰ってきたとき、私はパソコンで文章を書いていた。

Aさんの役目とはいえ、私の代わりに仕事をしてくれたAさんに私は「ありがとうございました」と伝えた。

と、Aさんは私の真向いの椅子に座ると言ってきた。

「ユウト、お前に聞きたいんだが」

「はい」

「そのお前がやっている作業は、ここでどうしてもやらないといけない作業なのか?」

前にも聞かれたような問いに、私はまたかと嫌になった。

人は忘れる生き物なので同じことを繰り返してしまうのは仕方ないことだ。

だが同じ人物に、とてもシンプルで簡単な内容の問いを繰り返しされれば嫌気も指してしまうのも分かると思う。

苛立ちが湧いてしまい、私は少し棘のある言い方をしてしまった。

――今振り返れば確かに言い方は良くなかったのだろう。

「いえ、必ずというものではありませんが……やっているとAさん、迷惑ですか?

もし仕事に支障を出しているなら、Aさんが迷惑を被っているなら作業も控えようかなと思いながら私は問いかけたつもりだった。

だが、Aさんは突然激高した。

「お前、迷惑ですかとはどういう言い草だ!」

――そこからはしんどかった。約一時間、二人っきりの逃げ場のない状況で私はAさんから叱責をぶつけられまくったのだ。

初めは何が問題なのかを尋ねようとした。他の人も読書やクイズ解きをやっているのだから、それと同じようにパソコンで作業をやっているだけだ。彼らが良くて私が悪いのは何故なのか教えてほしい――私はできるだけ簡単な言葉で冷静さに努めながら問いかけた。

だが、Aさんからの言葉はこうだった。

「そういうことを聞いてんじゃねぇ」

「それは屁理屈だってんだ」

「お前の物言いに俺は腹が立ったんだよ」

どうやら私の「迷惑ですか?」にプッツンして、そこから感情のままに当たり散らかしてきているようだった。およそ言葉が通じず、たまらず私も大声を出して「いい加減話を聞いてください!」と机をたたいた。

「じゃあなんなんだ、言ってみろ」というのでさっきの理由を言うと、「それは屁理屈だってんだ」と繰り返してくる。

結局、どうやらそのときの問題は私の社会常識の欠如と生意気さ、屁理屈ばっかり言って理屈っぽく『素直でない』ことが原因のようだった。

……もしかしたらこんな風に分析するところが『理屈っぽい』のかもしれない、彼が言うには。

なんだこのクソじじい。頭おかしいのか。理不尽すぎるだろ。

怒りがあふれ、私は目の前の人物に真っ向から対立した。

だが、途中で気が付いた。「ああ、これはダメだ」と。

これは理屈とかそういうのではない。私がムカつくから、自分が腹立たしいから、ただそれだけの感情論だ。

最後は結局、理論<感情論なのだ。

私は面倒になって、そこからは

「はい」

「そうですね」

「すみませんでした」

「反省します」

を繰り返した。ザ・大人の対応である。

急に態度を変えた私に気づかず、

「お前がそんな奴だとは思わなかった」

「団体生活でそんなだとやっていけないぞ」

このようにAさんは変わらず管を巻き続け、彼の言い分に肯定と謝罪しかしなくなったイエスマンの私に、

「そういう素直さが大事なんだ、分かったか」

と言ってきた。

「では、素直とはいったいどのようなものなのですか。私にはあなたの言葉を正しく理解できないので、ぜひ教えていただきたいのですが」

とした手に出てみるも、

「なんでお前に教えないといけないんだ。お前は教わったらその通りに行動するつもりなのか。そんなのじゃだめだ、自分で考えろ」

と取り付く島もない。

そして挙句の果てには

「お前みたいなやつはここにいてもらわないでもいい」

とおっしゃったのであった。

あまりの言いたい放題にさすがの私も怒りを通り越して呆れてしまい、

「じゃあ辞めますね?」

と答えると、

「おお辞めちまえ!」

とAさんは吐き捨ててきた。

……はたして私はどうすればよかったのだろうか?

確かにきっかけは私かもしれない。私自身にも良くないところはあったとは思う。

だが100%私が悪とは思えない。

何より私の人生をほとんど知らないAさんに、勝手に社会不適合の烙印を押される筋合いはないのだ。

……Aさんと別れた後、家に帰ったら私は強烈な腹痛に見舞われた。

随分とストレスがかかっていたらしい。やはり怒るのは良くない。


ひとまず、この件で私は一つ学べたことがある。

人には言葉がある。言葉を使えば分かってくれるはず――そんなものは嘘に過ぎないとよく分かった。

そして私と分かりあえない人なんて、存外世の中には多いのだろうとようやく理解できた。

友達百人できるかななんて、夢もまた夢なのだろう。

読者のあなたも、そんな人物と会ったことがあるだろうか?

もし会っていないなら、会わずにいれればそれに越したことはない。それはとても幸せなことである。

ちなみに、二人のうちのもう一人は私の祖父である。家のものに限らず、周囲の人からしても困った人物で、その標的に私もなったというわけだ。

とりあえず、私はAさんとは今後できるかぎり関わらないようにしようと思う。

お互いにその方が好ましいはずである。

人との関わり合いは、会話ができるからこそ楽しいのだから。


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