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頑張っていない自分にもご褒美を

昨日。7歳の長男が、1泊2日のバスケ合宿から帰って来ました。

1泊とはいえ、7歳の我が子が家にいない時間はとっても寂しくて。妻と二人で「寂しいね〜」を何度口にしたかわかりません。

大型バスに乗り、無事に帰ってきた長男の姿を見たときは、本当に嬉しかったなぁ。

7歳の小さな身体で、1泊2日の大きな旅を終えたわけです。なんだか一回り大きくなったように見えました。

帰り道。妻が、頑張って来た長男のために、スーパーで長男が大好きな「お寿司」を買ってあげたんですよね。

「よし。今日はお寿司を食べて、ミニパーティーをしようか!」と。

・・・でね。

ここまでは、とっても良い感じの流れだったんですよ。

でも、この後事件が起きました。


お昼寝を終えた次男が、長男の前に出されたお寿司を見て「僕の分は?」と寂しそうな顔をしたんですよね。

そんな次男を見て、僕も妻も「(あ。しまった。)」と。時間が止まりました。

僕と妻は、次男に言い訳をするしかありませんでした。

長男がいなかった間に、次男もお寿司以外の美味しいものを食べたこと。お寿司は、頑張って来た長男のためのご褒美であることなどを説明しました。

でも、4歳の次男の目には、どんどん涙が溜まっていき。

今まで一度も見たことがないほど、悔しそうな顔をして、妻と僕のことを睨みつけて来たのです。

妻も僕も、大大大反省をしました。あのときの次男の目は、本当に怖かったなぁ。

そこで、僕は近所のスーパーまで、急いでお寿司を買いに走りました。

「自分の分」を用意された次男は、徐々に怒りを鎮めてくれたのですが・・・

僕は、この体験からすごくすごく大切なことを学びました。

それが、

頑張っていない自分にもご褒美を

「頑張る」って、人それぞれの感覚ですよね。

今回、僕は「バスケの合宿に行ってきた」という「頑張った長男」のことは認めてお寿司(ご褒美)を用意したのに、家でのんびり過ごしていた次男にはご褒美を用意しなかったわけです。

これは、完全に妻と僕のエゴでした。

でね。

ふと思ったんですよね。もしかして、これは「長男と次男の話」なんじゃなくて、自分の中にいる「頑張っている自分と頑張っていない自分」の話だったんじゃないのかな?って。

僕は自分自身に対しても、「頑張った自分」は認めて、「頑張っていない自分」は認められていないのではないか?と思ったわけです。

そんな価値観を持っているから、長男と次男という「他人」に対しても、自分の中にあった常識を押し付けてしまったのではないか?と。

きっと、僕の中にいる「頑張っていない自分」も、その声が聞こえないだけで、次男と同じように、自分だけご褒美をもらえないときには、しょげて、怒って、ヘソを曲げているんじゃないか?と気づいたんですよね。

「頑張っていない自分」って、本当にダメなやつなんでしょうか?

いや。絶対にそんなことはない。と僕は思います。

だって、「頑張らなかった過去」があったとしても、今僕はこうして生きているわけですから。過去の自分の選択は、常に「正解」だったはずです。

だって、もしもどこかで「不正解」を選んでいたなら、今僕は生きていないはずだから。

判断を誤らずに来れたからこそ、生きているんです。

だから、本当は今日まで生きて来れている時点で、過去のどんな自分に対しても感謝なはずなんですよね。

頑張ったから認められるんじゃなくて、頑張ってなくても認められて良い。

他者理解は、自己理解に繋がるな〜。という、とても大切なことを子どもたちから学ばせてもらいました。

あなたは普段。「頑張っていない自分」のことも認めてあげられていますか?

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ゆうと
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