家業を辞めたくて仕方なかった時の話
家業を継ぐきっかけ
「ちょっと、来てくれ。」
父親に呼ばれ、席につくと「非上場企業の株式は...私の代を跳ばして渡したほうが…」と難しい話が急に始まりました。どうやらリーマンショックで家業も含めて経済がどん底状態の今、株式譲渡のコスト(税)を最小限にする絶好のチャンスらしい…。当時、私は中学生でした。
このチャンスを活かして株式を後継者に持たせれば将来楽になる。しかし、息子の意志が固くなく後から心変わりしてしまったら大変だ…。と、父親は考えていたのでしょう。
「難しいとは思うが、今、将来会社を継ぐかどうか決めてくれ。」
それまで親から直接、家業を継いでほしいなどとは言われることはなかったですが、創業家の長男として生まれ、周りからは4代目だと幼いころからもてはやされて育ってきました。
不安だけどなんとなく自分の将来は会社を継ぐことになるだろう…。それに、父親の頼みや周りの期待を押しのけてまでやりたいことなんてないし…。
そんな思いで「はい」と答えました。
こうして私はよくわからないまま、株式会社松浦機械製作所の後継者(候補)になりました。
記憶する限りでは、これが最初で最後の後継者になるかどうかの確認でした。その後は私が家業を継ぐ前提で自分自身も周りもあらゆる事が動いていたように思います。
エンジニアとしての自信
いきなり家業にどっぷり入るということはなく、大学院卒業後はFANUC株式会社に入社しロボットに携わっていました。私が在籍したところは、FANUCが自社で持つシステムインテグレーターというイメージの部署です。お客様の個別の工場の自動化の案件に対して、ロボットのプログラム作成から、ハンドや周辺機器の設計、また、現場での立ち上げまで一貫して何でもやっていました。
機械設計、制御盤の電気設計、ラダー設計、現場のフォークリフトや天井クレーンを使った重量物の運搬、アンカー打ちなどの毎日の業務に加えて、2,3か月長期出張し異国の地で現場立ち上げすることもありました。とても濃い3年間を過ごしながら、エンジニアリングの楽しさを享受しました。
実はFANUCには松浦機械の跡取りという理解の上で迎え入れていただき、ヒラ社員として”修行”させていただいていました。FANUCでロボットをすることになったのは、工作機械とロボットを組み合わせる自動化は今後需要が高まり、高い投資効果が見込めると松浦機械の経営層が判断したためです。
天狗かもしれませんが、私は3年間で割と自立して様々な設計や現場立ち上げも行っていたので、自分のスキルには少し自信がありました。
ロボットの最新技術を松浦機械に導入する、なんなら、マシニングセンタの設計も自分の設計経験を活かしてやってみれば一流の製品を作れるかもしれない。大学、留学、FANUCでの経験、家業に貢献するために準備してきたことのすべてを発揮するときが来たと胸躍らせていました。
松浦機械に入社
まずは松浦機械のことを色々と理解することから始めるからと、経営企画室の副室長のポジションが自分の役職とだけ事前に聞かされていました。
システムグループという社内イントラシステムの管理やシステムのカスタマイズ対応をする部署を任せると入社初日に説明を受け、26歳にして課長クラスでのスタートです。
正直、上司として承認の判を押す、週報を受け取ることですら、最初はとても違和感を感じていました。システムに関しては全くの専門分野ではなく、6名の部下の業務をどうマネジメントするか悩んだためです。
私は実力無くして人の上に立つことに非常に抵抗感があり、今までの人生でもそんな人になりたくないと学業でも仕事でも実力主義を貫いて頑張ってきたつもりでした。
どんなにパッとしない学歴でも、FANUCで全然力を発揮できなくても、きっと将来社長にはなれるだろう。でも、他人になめられるのは嫌だ。実力で会社のリーダーと認めてほしい、そんな気持ちです。
これも家業を継ぐための”修行”の一環か…そんなことを思いながら慣れないなりに一生懸命、管理職をじたばたと頑張っていました。
半年後、経営企画室副室長の役職を主軸に、色々な部署を兼務で”修行”として回ることになりました。
ここでやっと、自分の専門分野のエンジニアリングに携わるチャンスを得たと当時は感じていました。この前後で、恐る恐るではありますが、自分で実際に設計に携わりたいと何度か経営層に伝えました。
しかし、将来の経営者が実業務に携わるのは危険、ワンマン経営に繋がる、将来上に立つ人間だからこそ人の使い方を覚えないといけないと窘められました。(今思えば、自分の熱意を語るのを恥ずかしがり、強く主張出来てはいませんでした。これをしていたら結果は変わっていたかもしれません。)
毎日辞めたいと思っていた時
技術本部に生産技術という新部署が発足され、そこに生え抜きのマネージャーが抜擢されました。そして、さらに2人目のマネージャーとして私が配属されることに。
会社からは2人で会社の抱える課題を解決しろと命を受けました。私はシステムを担当するマネージャーも兼務していたので、そこからのアプローチもできるだろう、と。
しかし、実際は生産技術の仕事はその1人目のマネージャーが全部やってくれるので全くやることがありませんでした。かといって、自分の経験を活かした設計のような手を動かすようなこともさせてもらえず、実の伴わない管理職として毎日数回会議に呼ばれるだけの日々を過ごしていました。
一方で、なんとかイニシアティブをとってやってみるシステムグループのプロジェクトも悉く、何も会社のことを知らないやつが口出しするなと言わんばかりにあしらわれたり、怒鳴られたり...。
なんで自分の実力も発揮できないし、気分も悪いことを家業だからってやらないといけないのだろうと思い悩んでしまいました。
思い起こせば、家業を継ぎたいと思って継ぐと言ったわけではない、自分が継がなきゃという義務感だけでここまで来てしまった…と、余計なことまで考えが巡りました。
特に嫌だったこと
参加する技術本部のDR(デザインレビュー)では、
ああ、私の設計者のスキルって(笑)がつくほどのものなのだと、正直プライドをズタボロにされました。
言っている本人は悪気がなく、もしかしたら私のためを思って発言していたのかもしれません。このお決まりのフリは2,3度、ことあるごとに発生し、その度に誰にも気づかれることなく、培った自信をすり減らしていました。
私の元気がないことを見かねたのか知りませんが、会社の偉い人達との飲み会の度に同じことを言われました。
本当、こいつらって何も分かってねぇな。
と心の中で耐えながら聞き流していました。(じゃあ、それを伝えろよ、とは今思いますが…。)
モノづくりやエンジニアリングが好きだからこそ、自分の携わっていないものを軽々しく好きなんて言えんわ。俺は自分が設計したものが好きなんだよ、と心の中で悶々とするだけです。
会社の後継者ってのはこういうもんだ。
お前の身の振り方は間違っている。
説教とたばこ臭い飲み会。おかげさまで、社内の偉い人との飲み会は大嫌いになりました。
根性あったはずなのに…
私はそれまでの人生、腹の立つことがあっても反骨精神で頑張る性格で、少ないが自分のいいところの1つだと思っていました。
そういうことを言われると、私は間違っていました、とあいつに土下座させてやるという思いで学業や仕事を頑張ったものです。もちろん啖呵を切るようなことは引っ込み思案なので実現できずじまいでした。
今回の場合は、自分の身を立てようにもその環境や機会が全くなく、自分で自分のことをさらに情けなく思う日々でした。
こんな人間じゃないはずだ…もし、家業を辞めたら目の前の仕事がむしゃらにやって実力で昇り詰めたい…。
当時は何度も何度も辞表を提出する妄想をしたり、弟に継がせたら皆納得するだろうかと頭の中でシミュレーションをしたりしていました。
それでも耐えられた理由
何とか気持ちをつなぎ留められたのはアメリカ駐在の話があったためです。
これは家業に入る前から決まっていたもので、本当は入社後半年経ったら、数年間アメリカの子会社で駐在する予定でした。しかし、行く前にあれもこれも経験したほうがいいと何度も延期にされ、”修行”の部署周りを2年続けさせられていました。
日本の本社を離れ、全てのしがらみから一時的に解放されて、誰にも否定できない実績を作って本社に舞い戻ってやる。
もしくは、いい成績を残しまくって、こっちにいるほうが貢献できるからしばらく本社には帰らないと突っぱねようと夢見ていました。
人生逆転のチャンス…それまでは粛々と準備を整えるだけだ。
コロナの蔓延で渡米できず…
そんな中、アメリカ国内でコロナウィルスが蔓延し始め、2020年3月19日に米国領事館から非移民ビザの面接の一時停止が発表されました。私の面接日は1週間後の3月26日の予定だったので突然の出来事に面喰ったことを覚えています。
その時はアメリカ駐在に向けての最後の研修先として、アプリケーションエンジニアの研修を受けている最中。しかし、いつ渡米できるか分からず、その間、研修を続けるのはもったいないということで、アメリカ行きの計画は無しにして数年で私が経営層に加わる舵取りをしたいと打診されました。
アメリカ行きを諦めることは絶対に嫌だった私は、一悶着どころか、十悶着程起こし、結果的にアメリカ駐在はコロナが落ち着くことを条件に半年延期というところで合意しました。私はそれまでの経営企画室副室長の任を解かれ、技術本部の開発部長に昇進です。
自分のやりたいことをやるチャンス…?
開発部長になってからも、またもや毎日数回会議に出るだけでした。一応、まだアメリカ駐在の計画は頓挫していなかったのでそれまでの辛抱だと思いながらの我慢の日々です。
開発部長に就任して1か月半後、海外子会社との半期報告のWebミーティングがありました。コロナ禍の中、お客様に訪問できず、まともに営業活動ができない。松浦機械もオンラインマーケティングやデジタルコンテンツを始めないとまずいと各子会社が強く訴えかけてきました。
Webミーティングは1日に1社ずつあったのですが、終わる度にここも同じこと言ってきたな...どうしようと、議論が始まります。
私はずっと偉い人達が議論している様子を眺めているだけでしたが、正直まぁ情けない会議だと思いました。
会社の明確な課題が目の前にあるのに、一生懸命それが出来ない言い訳を考えだすだけの時間。
こんな会社が将来、真っ先に潰れていくのかなぁ…と他人事のように考えてしまいました。
毎日のように同じような議論を聞いていく中で、
勇気を出して、私がやるのはどうでしょう?と発言したら、私も実は悠人さんがやるべきだと思ったなど言われてあっさり案が通ってしまいました。
担当者が私に決まった後は、あんなに出来ない、無理だの一点張りの議論だったのに、オンラインマーケティングだけでは物足りないとどんどん話を拡げられて、社内のシステム改善なども担う私を含めて若手2名のDX推進室が発足しました。しかも、開発部長兼務のおまけつきです。
自分の手で何かを具現化する楽しさ
DX推進室は既存の部署とは完全に独立し、誰にも縛られない会社の日常が始まりました。
素人なりに動画を自作しYouTubeで公開しまくる日々。これはいい作品が出来たんじゃないか…?と、自信満々に出したものがショボい再生数だったり、社内から反対のあった動画が意外にYouTubeで高評価だったり...。
次はあれを試してみよう、世の中の人たちの関心が高いものはなんだろう、動画ってこういうことにも活用できるよなぁ、と自分の頭と手を動かしながら挑戦していく。
この仕事の中でやっと過去の自分を取り戻せた気がしました。
色々困難はあるけど自分で試行錯誤しながら何かアウトプットを出す。自分で作ったものだから愛着も感じるし、他人に否定されると憤慨し価値や存在意義を認めさせたくなる。
結局、自分の作品とか努力の結晶と呼べる何かがあればよかったのか。
アメリカは諦めることに
その後はコロナ禍が収束を見せない、なおかつ、会社組織の次世代の移行のタイミングとして新しい経営陣にしたいという話がでてきました。
アメリカ行きをあきらめて取締役に就任するよう言われ、残念ではありましたが最終的には受け入れることができました。
私のどん底時代の精神の支えであったアメリカ駐在が無くても、今のスタイルで仕事を続けられるなら、自分も満足だし、会社にも貢献できる、このような変な自信があったためです。
そして、2021年4月に取締役に就任し今に至ります。DX推進室の室長は続けており、プレイングマネージャーとしてバリバリやっています。
オーナー系の後継者が実務を知ってしまったらワンマンになるからやめろ。
この忠告を無視し、色々自らの手を動かしています。もしかしたら、松浦機械の未来に黄色信号が灯っているかもしれません…(笑)。気をつけます。
悩んでいる人にアドバイスするなら
個人的に大事だと思うことを2つだけ。
どんなことでやる気が出るでしょう?
逆に絶対に嫌なことは?
自分を知ることが大事だと思います。
私の場合はプレイングマネージャーのようなスタイルがあっていました。
これが万人の正解ではなく、自分は実作業を極めるよりも会社のいろんな人とコミュニケーションを取る方を優先したいだとか、俯瞰的な視野で会社を動かしたいというような好みはあるでしょう。
自分がやりたいスタイルさえ合っていれば、家業に入るまでの経験や分野の違いはさほど重要ではないかもしれません。
もう一つは会社にちゃんと考えを伝えることです。
会社のことは会社の偉い人達が一番よく知っている、この固定観念にとらわれてモヤモヤしたまま、言われることに従っていることが駄目だったと振り返り思います。
会社の未来を後継者に託すならば、後継者だって一人の人間であることを理解させなければなりません。考えや思いは先代とは異なります。そして、自分のことは自分が一番よく知っているはずなのです。
私も我慢せずに自分の考えを分かってもらう、意固地になってでも貫くことが出来ていたら、思い悩むことがなかったのではないかと思います。
会社に貢献したい、少なからずそう思って家業に足を踏み入れたはずです。その気持ちに加え、さらに自分の仕事に自信や誇りが持てる何かがあれば、どんな困難があろうと乗り切れると考えます。
終わりに
このようなことを書いて会社にとって良いのか悪いのか判断はつきません。
しかし、当の私は今まで言えなかったモヤモヤを全部ぶちまけてスッキリしました。
明日からも、仕事がんばろう(笑)
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最後まで読んでいただきありがとうございました。