今考えていること(自己紹介)
初めまして
東京に住む大学2年生の竹居勇登と申します。
2025年が始まって既に二週間以上経っていることに衝撃を隠せない今日この頃ですが、今年は思い描いていることをきちんと形にしていくぞということで、自分の考えていることをきちんと言語化し、noteに載せていこうと思い立ちました。文章に残すことに結構緊張する人なのでどれだけ続けられるかはわからないけれど、取り敢えず始めてみます。
初めての今日はある種、自己紹介みたいなものになるのかなと期待して、これまでに考えてきたことをまとめつつ、今考えていること、これから自分が取り組んでいきたいとを記します。
ちなみに私の考えは、これまで読んできた数えきれない本、これまでお話を聞いてきた数えきれないたくさんの方々、参加してきたたくさんのイベントや場からの影響をたっぷり受けて形成されたものです。そういう意味でこれから記すことは全くもって自分だけの考えではないということは前置きしておくと共に、この場を借りて、たくさんのものを私に贈ってくださってきた全ての方々に感謝をしたいと思います。
なんと気づいたら12,000字くらいになってしまいましたので、暇な時に気になるところを読んでもらえれば幸いです。
軽く自己紹介
2004年生まれ、東京在住の大学2年生です。生まれも東京で、上海に4年、アメリカに留学で1年住んでいた以外は東京にいます。
専攻はこれから社会学になりますが、人類学とか思想や哲学とかかなり好き勝手学んでいます。
小さい頃から好奇心が旺盛で、新しい価値観や思想に出会うとわくわくします。だから本、本屋巡り、おもろいイベント、おしゃべり、旅、街歩きなどなどが好きです。基本的に自由人なのですが、ずっと学校行事やお祭りに関わってきてて、誰かと協力して何かを成し遂げることに圧倒的な幸せを感じます。
あとはもう本当に美味しいものが大好きで、多分美味しい出汁を味わった時に一番幸せになれます。将来は出汁ソムリエになります(?)
取り敢えずこのくらいにして、ここからはこれまで考えてきたこと、そして今やりたいと思っていることを記しておきます。
私の関心の始まり(高校時代)
今の私の関心は、高校の頃に資本主義社会の課題をどう乗り越えるか、に関心を持ったところに始まります。幼い頃から好奇心は旺盛で、電車好きだったところから始まり、地理や旅行などを経由して社会、政治や経済への関心もどんどん強くなっていきましたが、今に繋がる方向性が明確に見えてきたのは高校の頃だったと思っています。
大きなきっかけとなったのは高校の時にアメリカに一年留学したことでした。現地の高校で毎週ホームレスへの炊き出し支援をしていたのですが、どうして世界一豊かと言われている国にこんなに貧困が存在するのか、これはどう考えても社会の不条理ではないのか、逆になぜ私は恵まれて生まれてきたのか、、そんなことを考えました。元々綺麗な自然風景が好きだった私は環境問題にも意識を向けるようになります。そしてそれらの問題意識が、やがて統合されていったのです。
当時はちょうど、斎藤幸平の『人新世の資本論』が発売されるなど、日本においてポスト資本主義の話題が少し広まった時期でした。またボーダレスジャパンをはじめとするソーシャルビジネスが少しずつ知名度を上げている時期でもありました。それらの影響も大きく、今の格差や環境問題を生み出している資本主義社会をどうアップデートしていけるか、特にビジネスをどう新たな形に変えていけるかに強い関心を抱くようになったのです。
また、高校の授業は基本的にあまりやる気がなくひたすら友達と喋っていたか寝ていた記憶ばかりなのですが、そんな中唯一️(?)めちゃくちゃ好奇心を刺激された授業に「考える国語」という授業がありました。その授業では西洋に追いつけ追い越せで始まった近代化に対して、夏目漱石らが警鐘を鳴らしていたことを知ります。コミュニティが解体され、個人主義化が進められたことによって現れた寂しさや、失われた暖かさみたいなものを文学を通して感じ、近代が壁にぶつかる今、前近代的なものと近代的なもの、それぞれの良さを両立できないか、と考える契機になりました。
更に高校の試験勉強や受験勉強においても私はとある(嫌味のような)悩みを抱えるようになります。私ははっきり言ってそういった勉強が「嫌いだけど得意」でした。あまり勉強しなくても高い点数がなぜか取れてしまう。しかし隣を見ると自分の何十倍も勉強していそうなのに成績が伸び悩んでいる人がいます。恐らく周りから見ると自分は間違いなく嫌なやつで、自分自身もこっそりと罪悪感を覚えるようになっていきます。
世間的にはいい成績を取り、いい大学に行くことは努力の象徴とされ、それこそが目指すべき道のように扱われています。そしてそれはその人の努力の結果なのだからその人が良い待遇を受けるのは当然だとされています。
しかし、ここに私は大きな疑念を抱くようになります。
決められたレールで勝つことが正義とされ、そこで勝ったやつは偉いと言う風潮は何かおかしいのではないか。受験就職と駆け上がるレースはさも努力の象徴で、頑張った人が報われるのは当然だとされているが、そんなのは半分くらいまやかしで、結局遺伝、環境、運でほとんど決まっているのではないか、と。この確信はサンデルの本を読んだりして深まるばかりでした。
また色んな魅力を持つ人たちが一つの偏差値や年収といったあまりに窮屈な物差しで測られること、そしてそれがさも唯一の認められる価値のように思われていることにも大きな違和感を持つようになります。例えば、私は人への気遣いとかが上手なタイプではないし、手先も不器用で、運動もできません。よっぽど尊敬できる人が世の中に無数にいるわけです。そうした人たちをそのまま認めてあげたい、そう思ったのです。
私はいわゆる偏差値という変な概念で一番の大学に合格しましたが、あまり受かるとも思っていなかったし、罪悪感や申し訳なさも感じていたので、もちろん嬉しさはあったけれど、少し複雑な気持ちもありました。友達にも「一生懸命勉強して落ちた人に謝るべきだ」と笑いながら言われ、その言葉は今でも脳裏に焼きついています。
自立や自己責任が強く主張され、能力主義が幅を効かせる世の中、決められたレールを歩むこと以外を強く否定する世間の雰囲気、あくまで一つの手段であるべき学校における勉強や偏差値が目的になり、それによって他者を評価する風潮。そうした部分に強い違和感を感じるようになったのです。
それと同時に、自分は今の社会においてかなり恵まれた存在であることを強く自覚するようになり、だからこそそれを自分のためだけに使うのではなく、世界を良くするためにも必ず使おうというある種の義務感、責任感を持つようになっていきました。
大学に入って
初めの頃、私は主にいわゆる(狭義の)経済学を中心に学びました。ピケティも読んでみたりしましたが、基本的には環境経済学を追求して外部不経済の内部化とかについて考えたり社会保障や福祉国家について考えたりが中心だったわけです。ある種今のパラダイムの中でどうやってうまく制度を変えていくかへの関心が強かったんだと思います。
一方で、6,7月頃からでしょうか、だんだん関心は変わっていきます。
柄谷行人の交換様式Dと出会い、高校時代に感じていた前近代と近代の良さの融合みたいな部分について考えたり、ゼミの講義で国分寺でクルミドコーヒーをやっていらっしゃる影山さんのお話を聞いたりする中で、個人主義を脱しミクロな共同体を取り戻すこと、贈与や共助の領域を拡大することこそが未来への道なのではないか。それも前近代のように縛られたコミュニティではなく、自由なコミュニティ、共助、贈与みたいなものが作れないだろうかと考えるようになったのです。
また論文を書く授業の課題で環境問題への人々の意識について研究し、外部不経済の内部化のような話ももちろん大事ではあるものの、根本的な部分はそこではなくて、人の自然観とか価値観にあるのではないか、と考えるようになります。特にこの頃邦訳されたジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』には大きな影響を受けました。
秋頃には共感コミュニティ通貨eumoに出会って感動したり、色んなイベントにも参加したりするようになって、どんどん自分の関心を深めていく良い循環ができるようになっていきました。そして資本主義社会の課題に様々な方面から立ち向かうたくさんのアクターを見て、たくさんの人の話を聞き、今何が課題となっているのか、自分は何をしていくべきかを考え、少しずつ方向性が見えてきました。考えたことのいくつかをシェアすると、、
ソーシャルビジネスやインパクトの広がりとともに、既に顕在化している社会課題をそこそこ短期間で解決することにはお金がかなりつきやすくなった。
これによって課題解決のスピードやアプローチの多様さはかなり改善していきそうだが、既存のパラダイムの延長線上での課題解決を目指すものが多く、課題が発生する土壌は変わらないリスクがあるし、数量評価しづらい領域や時間のかかる領域には相変わらずお金がつきにくい。
ソーシャルビジネスで働く人のウェルビーイングの問題が発生したり、ネガティブインパクトが軽視されている事例も多い。
例えば環境問題において、二酸化炭素削減というすでに認知が十分かつ計量化の容易な領域にはどんどんお金も回り対策が進んでいく一方で、そもそも環境問題が発生している根源にあるはずの、人の自然観のような領域は忘れ去られ、結果として二酸化炭素が減っても別の環境問題を引き起こすような取り組みも多く生まれてしまっている。
もちろん今のソーシャルビジネスやインパクトの取り組み、目の前の人を救う取り組みの尊さは言うまでもない。その上でそれだけでなく、拡大が難しく、長期間の取り組みとなったとしても、様々な課題の根本的な原因たる価値観の部分に取り組む動きも必要ではないか。システムの根幹への取り組みにはお金がまだまだつきにくい現状がある。
システムの根幹への取り組みに必要なはずの、学問の世界で積み重ねられてきた知見が実社会で全然生かされていない。
エコヴィレッジなどでは本質的な取り組みも起こってはいるが、局所的な取り組みで終わりがちだし、マジョリティから共感を呼ぶのはまだまだ難しそう。
資本主義や近代にただ反対を掲げてもうまくいかないし、そもそも自分もそれにすごく恩恵を受けている。
山口周の思想には特に影響を受けましたね。(これとか!!)
これらから社会を本当に変革していくためには、既存のパラダイムやフレームワークをより良くしていく動きをきちんと起こしていくこと。同時に、それすら見直して新たな世界観を作っていき、表面上の課題解決に留まらず、人文知や思想を社会実装していくような動きも起こしていくこと。この両方の好循環を起こしていくこと、トランジションデザインをきちんと描いていくことが求められているのではないか、と思うようになりました。
また学問の世界でも追求を続けましたが、しばらくは結構絶望というか、どこに風穴を見つけるべきか悩んでいました。今起きている様々な社会問題はもちろんたくさんの要因が絡み合って発生しているのですが、とことん根本的な原因を突き詰めていくと、多くの場合人の価値観や世界観などに辿り着くように私には思えました。そして唯物論や二元論を始めとし、西洋近代的な見方がとことん我々の思考にインストールされているという事実に気付かされます。しかしそういった人のものの見方や哲学ってそう簡単に変えられるものではないし、現実問題として資本主義は今の我々の生活には欠かせなくなっています。
私たちがより幸せになるために、より世界を良くするために作ってきたはずのシステムや制度、ものの見方がだんだんと私たちを縛り付けてしまっているという現状にすごく悩まされたのです。いっそのことという理由で、加速主義や新反動主義に流れる人の気持ちもわかってしまう気がしました。
そんな時にある種自分を救ってくれたのが、「世界は一つではない」という事実、そして中庸・バランスの大切さでした。自分に大きな影響を与えてきてくれたもののいくつかを紹介します。(あくまで自分なりの解釈で一部を切り出しているだけです、原著を是非読んでみてください!!)
人類学との出会い
松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』や、大学1年の最初の頃にたまたま聴講した小川さやかさんの授業に感動しました。
異なる価値観が世界には存在し、それとの出会い、異なる価値観と自分の価値観の往復が我々のものの見方を相対化し、少し変わるきっかけを与えてくれると言う事実
『多元世界に向けたデザイン』:世界は一つではない。二元論や西洋近代的な価値観を世界中に押し付けようとするグローバル化を批判し、それぞれの共同体が自治=自律的デザイン。universeからpluriverseへ。著者エスコバルも大好きな人です。
『なぜ世界は存在しないのか』:新実存主義。ベスビオス山も私が認識する山も、あなたが認識する山も、どれもそれぞれ存在する。
『コンヴィヴィアリティのための道具』『コンヴィヴィアル・テクノロジー』:イリイチはシステムや制度までを含む「道具」に関して、二つの分水嶺が存在し、第一の分水嶺を超えると道具は人の自発性や創造性を高めるが、第二の分水嶺を超えると道具は人を依存させ隷属させてしまうと主張。適度なバランスが肝要。
『気流の鳴る音』:<世界>と「世界」の区別。特定の「世界」に内没しすぎずに、常にそれを暫定的なものとして相対化する姿勢が肝要。間違いなく人生のバイブルの一つになっていくでしょう。
『ゆっくり、いそげ』『大きなシステムと小さなファンタジー』:上述した影山さんの本です。資本主義という大きなシステムに雇われ、全てを目標や結果志向で物事を進めると、人や関係性が皆手段になってしまう。全部をそれに振り回される必要はなくて、小さなファンタジーを大切に、植物が成長するような経済のあり方も作れるのではないか。三角形から逆三角形へ、リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ。
仏教:自らの考え方・世界観をメタ認知して自覚的に選んでいる、そして他者の世界も認める状態を意味する「フィロソフィー・コレクティブ」と言う概念を提唱されている実験寺院寳幢寺の松波龍源さんとの出会い。世界はそれを認識する人の数だけ存在する。
ちきゅう留学でお聞きしたYAMAPの春山さんのお話:『仕事観の前に社会観、更にその前に生命観・自然観を考えるべき。自分の命がどんな時にときめくのか、どんな社会で暮らしたいのか、の後にどんな仕事をしたいか、がある。』当時考えていたことをめちゃくちゃ綺麗に言語化してくれて感動しました。
「新百姓宣言」:もう感動の一言でした。私が考えてきたことともかなり近しいことをここまでちゃんと言語化して既に色々と実践されている方がいるのか、、と。絶対読んでください。あとこれ置いてる本屋は全部素敵です笑
今考えていること
今の日本、特に都会で生きる私たちは、意識しない内に資本主義や西洋近代的な世界観を内面化し、個人個人を切り分け、物に価値があるとみなし、自分がどれだけ富を増やせるかに集中してしまいます。今のシステムや制度の中でしか生きられないと思い込み、その中でどうやって勝つかばかりを考えてしまうんです。
でも実はそれは一つの世界の捉え方でしかない。我々は本来もっと自由なはずです。
考えてみれば、多くの場合、私たちは家族や友人との間に全然市場経済を導入していません。その時の気分によって全然違うものの見方をすることだってあります。損得勘定で動く時もあれば、そうじゃない時も。資本主義とか、西洋的なものの見方とか、確かにそれらに我々はすごい影響を受けているけれども、それに完全に支配されてるかというとそこまでではないはずです。
だとしたら、、そこを各々がもっと調整できるようになれば、つまり今まで多くの人が考えもしてこなかった『自分の価値観や世界観』について考えるきっかけを提供できれば、意外と希望は見えてくるのではないでしょうか。
今の社会の様々な問題の根本的な部分には価値観や人の考え方があるのではないか、と上述しましたが、これをもう少し具体的に記すと、人々が今のシステムや物の捉え方を内面化しすぎてる(世界が一つだと思いすぎている)ことに一つの大きな原因があるのではないでしょうか。この点に関しては、個人もビジネスも国家も究極的には同じです。今の資本主義社会や西洋近代的な枠組みが全てだと、価値軸がお金だけだと思い込みすぎてしまっているんです。
そこから少しでも自由になる。今の自分のものの見方を相対化し、きちんと在りたい世界を想像し、それに向けて歩んでいく。それが今求められているように思います。
そうしたら豊かさの概念も個人の概念も崩れてくるかもしれないし、自然が必ずしも操作の対象ではなくなるかもしれない。自分が本当にやりたかったことをできるかもしれない。人の持つ想いがもっと現れ巡るようになるかもしれない。
すぐに入りたい大学とか会社とか儲ける方法とかを考える、その前に考えることがあるのではないでしょうか。それは自分の世界観であり価値観であり生命観であり、哲学です。私はどう生きたいのか。私は何を大切にしたいのか。私は自分の生命を何に使いたいのか。それがあって初めてお金をどうやって稼ぐか、とかの疑問が湧いてくるべきなのに、今は多くの人がそれを忘れてしまっている、それこそが一番の問題です。全ての人が哲学者になるべきなんです。
そうだとすると、それを考えるきっかけをとにかく多くの人や組織に届けることが大きなレバレッジポイントになりうるのではないでしょうか。
これを私は「自律的」と表現したい、と思います。既存のシステムやフレームワークに内没し他律的に生きるのではなく、常にそれを相対化する視点を忘れず、自律的に自分の生き方を選択していくということです。
ここからはちょっと注釈みたいな話になりますが、「自律」だからと言ってこれは、完全に独立した確固たる個人みたいなものを想定しているわけではないですし、わがままや自分勝手を推奨するものでもありません。
まずそもそも自分の「世界」を認めてもらうためには当然他者の「世界」も認める必要があります。そして何より「世界」は1人で生きていける場所ではありません。
上述した松波龍源さんは著書で、『「私」は他者が存在するからこそ初めて区別されて存在するものであり、他者と関わらずに「私」が存在することはでず、本質的に私たちは相互依存関係にある』と述べていました。
人間以外の存在も含む他者がいて初めて私たちは暮らしている。そういう意味では「自律的」といってもその個人というのは他者との関係の中で存在し、他者との関係の中で生きていくことになります。だから「共に自律的になる、co-becoming」という言い方の方が良いかもしれませんね。
いずれにせよ、世界には当然他者は存在しているのですから、そういう他者との関係性もきちんと認識した上で自分の世界観や価値観を考えていくことが大切になってくると思っています。
その上で資本主義バリバリで生きていくんだ、と言う選択を取ることに私は一ミリも反対しません。きちんと世界を自分なりに認識し、自分がどう生きるべきかを考えた上で選択することこそが何よりも大事なのです。
それを元に今私が目指したい世界を言語化してみました。まだまだまとまりがないのはご愛嬌ということで。
制度やシステム、テクノロジーは素晴らしい発明です。誰もが幸せになるためにそうしたものを活用してきました。近代は物凄い時代でした。我々の生活は間違いなく便利で安全で快適になったし、誰も縄文に戻りたくはありません。ユニバーサルな開発やデザインが、間違いなく多くの人の今の生活を支えています。
私はそれらを支えてきた先人を批判するつもりはありません。その恵みを沢山受けているのですから。
でもバランスは肝要であり、過度に頼り切ったことが多くの問題を生み出しています。今、それらに感謝しつつ、それ以外の「世界」も大事にするべき時代が来ています。
多元的な在り方を認めるプルリバーサルな世界では恐らく時に争いは起きるでしょう。それを戦争にしない努力はもちろん必要です。でも、一つのシステムが支配していく世界よりよっぽど楽しいし、レジリエンスは高いはずです。もし一つがダメになっても他があることが大事です。私はたとえ全世界の人が利他的に平和に生きられるようになる薬が開発されたとしても賛成しないでしょう。
人が人間らしく、自律的に、そして共に生きていくことは簡単な道ではないかもしれません。それぞれの「世界」の存在を認めることは、人と人が分かりあうことの難しさを意味します。
それでも一生懸命分かり合えるところを見つけながら共に生きていく。他者との関係の中でしか生きられない自分を認めつつ、その中で自分なりにどんな世界で、何を大切にして、どうやって生きていきたいのかをしっかり考えて生きていく。そんな在り方を目指したいのです。
これからやっていきたいこと
まず最初に私は、社会変革のためには、既存の体制やパラダイムを改良していく動きと、長期的にパラダイムそのものを変えていくための取り組みの両方を起こし、好循環を起こしていくことが大切だと考えています。逆に大革命のような新たな大きなストーリーを描くものでは本質的には何も変わらないとも思っています。
①自らの「世界観」に自覚的になりつつ、プロジェクトを生み出していく人・組織を育む
世界についてよく知った上で、自分自身がどんな世界でどんな生き方をしていきたいのか、それを考えられる場があまりに不足しています。これは個人にとっても必要だし、組織にとっても必要なはずです。(特にソーシャルな領域で社会を変えたいと願う方々にこのレイヤーを考える機会を届けることにはものすごく価値があると思っています)
まずはこれをコミュニティ的な形としてやろうと今絶賛もくもくしていますし、いずれは教育や研修のプログラム、コンサル的な形でも活かせると思っていますし、誰もがぶち当たる進路やキャリアの悩みからうまく導けたら楽しそうとも思います。
私は自分の世界観や生き方を考える上では、
1. 異なる世界観や生き方に触れ、自分のそれまでの見方を相対化すること
2. この世界のことをよく知ること(知識でも体感でも)
3. 対話をしつつ、自分が大事にしたいものを考えること
が肝要だと思っています。
昨夏に参加して大きな影響を受け、大好きになったちきゅう留学も、人や自然との繋がりを体感する中で自分の世界観を考えるという、まさにイベントという形でこの役割を担っていると私は思っています。
こういう場をいかに増やしていくのか、より多くの人に届けていくのか、がチャレンジしていきたいことの一つです。
②社会の物差しを増やす&より良い方向に持っていく
個人の価値観にアプローチする一方で、やはり社会の価値観や規範が個人に多大な影響を与えていることは否定しようがなく、その意味で社会にある価値軸もまた多様にしていくべきです。
いわゆる金銭以外の価値をどのように可視化し、より多くの人や組織がそれをベースに動けるように変えていくのか。もしかしたらステークホルダ全体=自分の周りのネットワーク全体を表す指標とかでも良いかもしれません。単純化して計量化してしまうことによる弊害は恐ろしいものがあるので、それをできる限り防ぎながら、社会の価値軸をいかに増やして行けるか、金銭以外の価値軸を社会にインストールできるのか追求していきたいです。ソーシャルインパクトやウェルビーイングが「結局何も変わらんやん」という風にはならないように、きちんと良い方向に持っていく、その一助となっていければと思います。
③人文知を社会に活かす、届ける。思想の社会実装を担う
これまでもいくつか記してきたように私は今の世界を捉える上で人文社会科学の様々な知見を学んできたし、これからも学んでいきたいと思っています。そしてこれがアカデミアの領域に閉じこもっていることはあまりに大きな損失だと思うのです。
現状の企業のR&Dも自然科学の領域が多いし、マーケティングや組織論などの経営学領域までが殆どです。しかし、社会的に良い影響を与えていくためには、なので特にソーシャルセクターには、きちんと在りたい世界を明確にした上で、システムを遡り、レバレッジポイントを見つけ、そこにきちんとアプローチしていく必要があり、そこには人文知がかなり必要だと思っています。そうでなくとも変化が激しく、何が求められているのかが変化する世の中において、きちんと長く価値を出していく組織になるためには間違いなく人文知やいわゆるリベラルアーツが必要であり、この領域の研修やコンサルについてはまだまだ改善、発展の余地があると思うのです。
そして今一番必要なのは、学問の領域で議論されていることを実際に社会に実装していくこと、即ち思想の社会実装だと思います。表面上の課題解決をしていても社会は変わらないものの、理想を語るだけでも社会は変わりません。現場と理想の橋渡しをいかにできるか、深みのある議論を現場の文脈にどう落とし込んでいくのか、自分自身もここをきちんとできるようになりたいと思うのです。
ヘラルボニーの松田さんは彼らが目指すのは「市場の拡張ではなく思想の拡張」だと仰っていて、私はこれにものすごく共感しました。思想や価値観をいかに現実世界に落とし込み伝えていくか、そこを担える人になっていきたいです。
④学び、探求し続ける
これまで通り一生涯かけて好奇心の赴くまま学び考え続けていきます。長く生きていく中でどんどん深められると思うとわくわくしますね。いくつか今、特に探求したいテーマを書いておきます。
倫理と政治哲学・公共哲学にちゃんと向き合います
ケアの倫理、ケアリングデモクラシーは可能なのか。民主主義についても改めて考え直す。
多元的な在り方を認めた時にそれでも強調するべき最低限の倫理って何?人権って??
異なる価値観を認め合った時に起きてしまいうる対立をいかに平和的に解決するのか和平構築について探求したい。
人間中心主義をいかに抜け出せるのか、マルチスピーシーズをもっと探求します。ちきゅう留学で体感で得られたあの感覚を忘れないように。。
これからの経営理論、ビジネスはどうあるべきか。もっと探求したいし、今まで触れてきたものを統合したい思いも。
個人の概念の再構築。個々の境界が溶け出す感覚をいかに育めるか、引き出せるか。
(時に、遠くや未来にいる)他者への想像力、共感力をいかに育めるか、引き出せるか。
よりよいコミュニケーション、広め方、PRの在り方
ナラティブやエクスペリエンスデザインを通して人が考え方や行動について自然と考えるきっかけを作りたい。
⑤常に今ここにあるものを大切に、もっと人と世界と繋がり、それらにきちんと応答していく
ここまで書いたことはかなり目標志向だなと思います。社会を良くするためにこれをやる、みたいな逆算です。
これも必要です。ですが影山さんが仰るようにそれは下手すると今の自分や自分の周りの人を手段にしてしまいます。
あくまで自分の中に余白を設けて、そこにやってきたことにきちんと応答しつつ(インゴルドですね)、今ある繋がりを大切に、ご縁を大切に生きていくことを忘れないようにします。
他にも色々思うことはあるのですが、取り敢えずは、いくつかのプロジェクト・コミュニティを動かしつつ、共感するプロジェクトに参画しつつ、自分の目指していることと近いものを目指すいろんな素晴らしい組織に実際に携わり、そこから生まれてくるものを楽しみたいなと思っています。
終わりに
先日、友達が今暮らしている能登の黒島町門前町という場所に訪れました。
そこで友達と話す中で彼はめちゃくちゃ面白い話をしてくれたんです。
『この町には昔からいわゆる外貨を稼ぐような目立った産業がない。昔からこの町に住む人々は、この町で里山里海からの恵みをいただいてそれを地域に暮らす人で分かち合って暮らしながら、かつては北前船の船主、近年では貿易船の船乗りとして資本主義バリバリの仕事もして外貨を稼いでいる人が多い。彼らは見事に二つの世界を行き来して暮らしてきたのだ』と。
この話を聞いて、こんな素敵なことに気づかせてくれる友達の存在に感謝しつつ、私は彼らの生き方はある意味めちゃくちゃ最先端だなと思いました。
自分の中で何を大切に生きていきたいのか、どんな世界で暮らしたいのか、それを常に考えながら生きていく、それが何よりも大事だと思います。私自身ももっともっとそんな生き方をできるようになりたいし、今後たくさんの人にそのきっかけを届けていければ、と思うばかりです。そしてその結果としてたくさんの人が、他者と共に自分なりに生き生きと輝く、そんな世界になればなと願っています。
こんな長い文章をちょっとでも読んでくださった方々、本当にありがとうございます🙇
最後になりましたが、ここに書いたことに少しでも共感してくれた方、なんか一緒にやろうよという方がいらっしゃれば、是非お気軽にInstagramやFacebook、以下のメールにてご連絡ください!!!
それではまた。気が向いたら何か書きます。