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正解探し。

小学生の時、クラスでいつも輪の中心にいたあの子。発表する前に必ずあの子を見た。あの子が手をあげていたらあげる。手をあげていなかったらあげない。あの子と同じように振る舞えば、なんとなくで人間関係を乗り越えられた。正解になる人をしきりに変えて、多感な学生生活を上手く乗り越えた。そんな日々が夢に出て、いつもより早く目が覚めた。

魅力的に感じる人はその時わたしが求めている答えを持っている。仕事も、恋愛も。だから正解が分かって、できるようになってしまうと飽きてしまう。正解を求めない恋愛は今が初めてで、一種の自分を捨てる行為でもある。

最近は慣れないことをよくしている。いい意味でって口癖のように言いながら。ここ数年、気持ち悪い慣れないことは日常的にできてしまうようになったけれど、気持ちのいい慣れないことはなかなか気が進まなかった。その気持ちのいいことに対する鎖が壊れはじめている。大嫌いだったおうちが大好きな場所になって、人が頻繁に出入りするようになった。感情が溢れたときに言葉ではなく音楽や絵を求めるようになった、し、わたしも言葉以外で表現することを試し始めた。

言葉で表せないものを絵で表現できるようになったら、あなたはもっと自由を愛せるかもしれないね。と元恋人に言われた言葉を反芻する。

言葉を咀嚼するのに時間がかかる。誰かと対話するときに出た自分の言葉に吐き気がする。でも、その言葉に隠れている本心をわたしは見つけたい。与えられた言葉は受け取り、身から出た言葉は疑う。この癖はいつから?

仕事をすることで、うまく言葉を操れるようになった。それでも毎日、わたしの吐いた言葉を思い出しては、吐いたり、飲み込んだり。そうして残った言葉が宝物のように心のタンスにしまわれて、使い道を間違えたときに夢になって出てくる。言葉は思考に追いつかないはずなのに、思考も言葉に追いついていない。変なの。

正解がある場所に落ち着いて、正解から外れそうになると苦しくなって、正解を守り切れなくなって、離れていく。わたしの日常はこの繰り返しだ。最上級の正解はお母さんで、お母さんだったらなんと言うだろうか、わたしはあの人に認めてもらえるのだろうか、そんなことばかりをずっとどこかで考えている。お母さんがこの世界からいなくなったとき、わたしはなにを基準に生きていくのだろうか。真暗な水面を見つめていると、寂しさの隣に、言葉では表せない色をした未来が見えた気がした。

これ、と思ってしまうとすべての思考をそこに結びつけてしまう。
正解がテーマのわたしは、日常からそのとき求めている正解を見つけてしまう。わたしの変化がはやいのも、触れた正解をとりあえず試してみるからだった。欲の多い人生で、いろんな正解を身に纏ったわたしは、最終どこに行きつくのでしょうか。

わたしはずっと、何者かになりたいようで、何者にもなりたくない。
なにをもっても形容できない、そんななにかになりたかった。

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ごま
いつか青い鳥になって、あなたの下へ幸せを届けます。