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メトロポリタン美術館展を見て

絵画は映像によって衰退したのか。私はこの展示を経て思ってしまった。まず絵画は古典という通史である。クラシックを聴いたり読書をする理由もそこにあり、歴史を見て現代と参照することにある。
受け取るのも現代思想としての一個人である自分と過去にいた芸術者が写術した絵画の三位一体による。芸術はあらゆることを可能にしてくれる。まず芸術を前に立つと、旅に出ることになるそれは精神世界の旅であり、神曲で描かれる旅そのものである。ルネサンスという言葉が意味するのも再生、復活であり、福音書を原理とした芸術の活動を見つけた。
我々はもう一度、美術をする意味を考えねばならない。絵が下手、苦手なんてものはどうでもいい。人生をどう行こうとする構想を持ち、週間規則を遵守して生活するという芸術者であるわけだ。哲学をするというのも定義上の哲学ではなく行為としての実践としての哲学をなおざりにするので有れば、哲学でもなんでもないわけで、それはただの議論のお遊びなのである。もちろん議論後には独断論は無為であり、認識の一形態が改善せねばならないのである。
これは私の芸術論であるが、思想を持ちたいという強い意志と神の啓示なのかもしれない。私は哲学を通して神という絶対的存在を見た。これは比喩ではなく、知性としての目で見たのであり、もちろん神は形而下ではなく形而上世界で表れるものであるから、哲学書が難解なのは神の存在証明をするには、形而下的事柄を捨象せねばならないということで、知性的活動を主体としているわけである。
最近の私は、死は知性と一体化することである。という命題の元、読書をしていたが、知性というのは肉体という感覚物に従属しているため、肉体の消滅を意味する死は、知性の消滅を意味するという容易な理解を見逃していた。
美術は形而下の事柄であるが、美術に描かれた世界は形而上であるという一つの媒介を担っている。

私は、哲学が形而下で重要とされている名誉や地位が俎上に載せられない理由をやっと見つけた。それは優劣、上下という尺度が用いられないのである。しかし知らないということを知っているという真実を見つけたのは間違いなくソクラテスだが、知らないということを知っていたとしてもどうしてそれが知っているのかという単純だけど極めて難解な答えが導き出せない。生まれたことにより、死ぬことを知るということを我々は知っているけど、動物たちは死が行われるという現象へ悲しさを持たない。しかし我々は、喪失感を抱きながらも生きるということを思い知らされる。なおかつ我々は、生きるということを知らない。なぜ生きるのだろうかという永遠の問いは、永劫的に延引されて現代的難題としても取り扱われる。
知らないということを知って何になろうか。
人を殺してはいけないということを知っていて常識的に語ることはできるけど、哲学的疑問はまだ残っている。プラトンの想起説は優れていて、何度もパイドンという作品を考えているが、自然物に生成消滅があるので有れば、人間もそれと相違ないのではなかろうか。失われてまたルネサンスの活動が求められる現代で美術品は何を我々に問うのだろうか。
この展示では誕生、日常、人生、消滅を体系的に描写していた。しかしその論理を知っていても、それを考察するのは浅はかである。実は哲学なんてやらずに自然のままに死んでゆくことが幸福なのかもしれない。人の欲求は変化していく。知りたいと思うのはたのしみたいと思うからであるのは分かるが、真理を知ったところで、人は幸福になれるのだろうか。スピノザは、真理は各人によって備わっている、と言ったのはその通りだと思った。誰も指摘や反駁できない事柄なんてものは存在しないからだ。思想は批判されて循環された。

理路整然とは言えない雑駁な私の文章だが、この展示を見て思ったことを述べたのは確かである。

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