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ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』と外山滋比古『思考の整理学』
少し時間に余裕が出てくると、仕事以外の知的営みに時間を割く気になって、本を買ってみたりする。
とはいえ、多くは積読になっていくのだが、久しぶりに本を読破したので、夏休みの宿題としては少し遅れてしまったが、感想文を書いてみようと思い立った。
題材(考えのとっかかり)
題材は次の2冊(3冊)だが、なんというか、不思議な組合せな気がする。というか、複数の本をまとめて感想文を書くのは初めてだし、もはや、一般的な意味の読書感想文にはならないのかもしれない。
○ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』と続編『ぼくは……2』
○外山滋比古著『思考の整理学』(新版)
僕は本を選ぶとき、もとより、ジャケット買いならぬ、表紙買いすることが多いのだが、1つ目の本(帯かなんかで『ぼくイエ』と略されていた)は、優しいタッチの少年の絵が描かれた黄色い表紙と、なにかセンスを感じるタイトルに惹かれ、前から気になっていた。行きつけの書店をぶらぶらしていたら、続編が出た(文庫本化された)とかいうことで、棚の脇で押し出されていて、目に止まったわけである。手に取らないわけにもいかず、冒頭読んでみたら面白そうだったので、2冊まとめて購入した。
『思考の整理学』は、なぜかその近くに置かれていたために手に取ってみた。(エッセイ文庫というくくりだったのかしらん?)
「東大で1番読まれた本」とかいう帯がついていたから、なんか嫌だなぁとためらったものの、「いやー、学生時代に読まなかったけどなー」とか思いつつ、まんまと悪趣味な帯に誘導され、手に取ったわけである。詳しくは後述するが、パラパラめくった最初の章で、怠けに怠けた僕の心を的確に射止めてきたので、買って読むことにした。(ハウツー本というのか、実用書というのか、○○するためにみたいな本は好きじゃないのだが、語り口がそういう本とは違った気がしたので、良しとした。)
優秀なグライダー
外山先生は、現代の学校機関は「グライダー人間の訓練所」だと言う。グライダーというのは牽引されて初めて飛ぶことができ、自ら飛ぶことができる飛行機と異なる。受動的に知識を得るグライダー能力と、自分でものごとを発明・発見する飛行機能力。前者があれば、後者は全くないという人間でも「優秀」とされ、そういう人も「翔べる」と評価されているが、グライダー能力に優れていても、本当の飛翔ができるわけではない。
自分でいうのもどうかと思うが、生粋の「優等生」として生きてきた僕にとっては、大変に耳の痛い内容である。グサっと心をえぐられて、買わざるを得なくなった理由がこれである。優秀なグライダー人間が、社会に出て必ずしも活躍できるわけではないとか書かれているもんだから、たまったものではない。ましてや、今年に入ってから、他律的な仕事ばかり、日々降ってくる有象無象の事務処理に追われ、1週間先のことも見通せず、日雇い労働的な働き方をしてきたもんだから、なおのこと。グライダーでも飛行機でもなんでもいいが、はっきり言って、知力の低下が著しいこと否めない。
僕のことは置いておいて、外山先生の主張は、特に、目から鱗の新しいものでも何でもない(書かれた当初は新しかったのかもしれないが、確認する気はない。)。グライダーという表現がわかりやすく、言い得て妙だという感はするが、僕がそんな評価をするのはおこがましい。
大雑把に言えば、日本の学校教育は、詰め込み型で考える力が伸びません。という、よくある主張と同じであると理解した。
よくあるとか言ったら失礼な気もするが、ここまでの僕の雑な説明でも、大まかなコンセプトは理解できるだろうから、そういうことなのである。
シティズンシップ教育
『ぼくイエ』は、イギリスの地方都市ブライトンの「元底辺中学校」に通う息子を中心としたエッセイである。格差の広がる階級社会で、東洋人の母を持つ息子が、日々の生活の中で成長していく様を描く。というより、むしろ、多感でかつ柔軟な少年の目を通して、貧困、格差、差別、多様性といった現代社会の課題を映し出している。
本はショートストーリーで構成されているが、どれも、何かこう考えさせられるところがあり、グッとくるものがある。読後感がとてもよかった。
さて、ここで紹介したいのは、シティズンシップ教育に関するエピソードである。
イギリスでは、中学校(Secondary School ※11歳〜5年間)から、「シティズンシップ教育」という教科があるようだ。シティズンシップ教育に良い和訳がないのだが、「デモクラシーと政府、法の制定と順守に対する…認識と理解を育む」ものであり、「政治や社会の問題を批判的に探究し、エビデンスを見極め、ディベートし、根拠ある主張を行うためのスキルと知識」を授けるものであるという。
息子(本でも名前は出てこなかった気がする)が中学校に入学したのは、ちょうどBrexitの国民投票があった頃だったが、定期テストの問題が、『エンパシー(これもまた良い和訳がわからない)とは何か』だったというところからストーリーが始まった。
息子の答えは、To put yourself in someone's shoes(他人の靴を履いてみること)だったという。(この表現は、かつて英単語帳かなんかで見た定型句で、日本語だと相手の立場に立ってということだろうが、靴を履くというのは面白いなぁとか思った記憶がある。)著者の補足によると、シンパシーは同情という心の動きであるのに対し、エンパシーは他人の立場に立って考える「能力」と定義付けられているということだった。
なるほど。エンパシーとは、つまり、身につけられる・身につけるべきもので、教育の対象なのである。他人への思いやりというと、日本では、いかにも「道徳」であり、道徳の授業で教わりそうなことでかる。それが、シティズンシップ教育で、いわば責任ある市民として生きるためのスキルとして、ポリティカルな文脈の中で教えられているのが、面白いと思った。
『ぼくイエ2』でも、総選挙の日に、学校全体で模擬投票する(それまでの選挙期間には議論する授業がある)というエピソードもあった。
ああ、これは面白いな。と思った。
主権者教育
何年前だったか、選挙権が18歳に引き下げられたとき、「主権者教育」というのが注目されたと思う。当時から熱心に追っていたわけではないから、その名のもとで実際に何がなされているのかすら知らないのだが、おそらく日本版のシティズンシップ教育のことであろう。
それにしても、主権者教育というのは、あんまり良い響きではない。主権者であるから、主権者になるために、社会や政治について自分で考える教育を受けるというのは、なんというか寂しいものである。
主権者であろうとなかろうと、もとい「主権者」である以前に、きっとそこで扱われる(べき)内容は、独立した人間として身につけるべき・育まれるべき素養なのではなかろうか、という思いである。(もっと言えば、人間は生まれながらにして「ポリス的動物(社会的動物)zoon politikon」なのであるから、養育する中で自ずと身に付けられるべきものではなかろうか、という疑問である。)
平たく言えば、学校教育システムの一環に組み込まれ、授業として教えられることなのか、ということである。けれども、学校が社会の縮図であるとすれば、それが教え育まれる最適な場所といえるのかもしれない。
2つの本を少し無理やり接合するとすれば、シティズンシップ教育あるいは主権者教育で目指されるべきものこそ、グライダーではなく飛行機型の人間なのだといえよう。
もっと言えば、そこで涵養されるべきは、【自分で考え判断する力】である。
題材は、「政治」と聞いて普通の人が想像する選挙とか政策とかそういった類のものだけでなく、むしろ、社会とか生活とか、そういった類のことであるべきと思う。
主権者教育というと、ややもすれば、主権者=投票者として、政治と紐づけられてしまう気がするが、目指すものはそうではない。社会とか生活とか、人間社会が直面している根源的な課題に向き合うとか、むろん、それは密接に政治と関係するのではあるが、人間として生きていく上で必要な力を育む必要がある。日本の学校だと、道徳とか倫理とかいう授業で扱う題材かもしれない。
いわば、「人間教育」とも言えるかもしれないし、それは学校教育のみで完結するものではないのだろう。
折しも、巷では、自民党の総裁選挙、つまりは、次期総理を選ぶ選挙が盛り上がりを見せている(かどうかは知らない)。議院内閣制だから、国民が国の代表を直接選ぶことはできないけれども、後継者指名なく、過去最大の候補者数で争うのだから、少しは面白いのではないかと思う。
というような、格好の題材があるときに、それを活かして、考える訓練でもできたら面白いだろうな…と思う。
本稿を書き始めてから2週間あまり、ここまでダラダラ書いてきて、とっくに結び方がわからなくなっているが、この国を少しでも明るい方向に導いてくれる新しいリーダーの誕生を祈りながら、ここらで終わりたいと思う。