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2023年振り返り/2024年の抱負:「期待していない自分」から「Start over!」

2023年を振り返ると、本当に飛躍の1年、頑張った1年だと思う。そう思える理由は大きく3つで、(1)院試、(2)インターン、(3)人間的な変化がある。1つ目の読んで字の如くで大学院の試験があり、一番行きたかったところではなかったけど、全く後悔のないところに受かったこと。2つ目も読んで字の如くインターン。圧倒的に挑戦させてもらえる機会が増えた。まだまだやれるぞ自分という感じ。3つ目は文字だけでは伝わりにくいけど、今まで一匹狼をやっていて理解して大切にしてくれる人に懐くだけだったけど、初めてちゃんと「後輩」的な人々ができたことで今までとは違う観点で自分と対話する機会が増えた。

ということで以降は次の章立てで詳述します(サザエさん風に)。
・大学院を受験→一橋に受かる
・反資本主義・反政府
・未来を考えられなくなった
・2024年に向けて
・10 Best Books for 2023


1. 「期待していない自分」から「Start over!」

やっぱり、個人的2023年重大出来事は院試、院進だと思う。24年の3月に東洋大社会学部社会学科を卒業し、24年4月からは一橋大大学院社会学研究科総合社会科学専攻に進学する予定。これだけだとそうですかって感じなので、少し自分の語りにお付き合いいただければと。ちょっと聞いてほしい。

「期待していない自分」ができるまで

僕は常に自分に凄く期待し、結果を求めている。一番その実感を持ったのは、日本の高校を中退し、カナダの公立高校に転校(留学?)した頃だと思う。というのも、海外留学なのでそれなりにお金がかかるわけで、わざわざ日本の高校に行くよりもお金をかけて高校を卒業することになる(日本の制度上は高校中退なので実質中卒なのだけど)。「こんなにお金をかけてもらっておいて、お前はそれなり以上の進路歩めないと罪悪感ヤバイぞ?」というのが心の声。

とは言いつつも、その種はずっと前からあったと思う。そもそも親は2人とも大卒だったし、父親に至っては「〇〇(某Gが入ったり入らなかったりする大学群)以下は自分で稼いで行け」とか言ってしまう学歴主義者だった。通っていた中学校も国立だったので、かなり大学進学を意識して周りはやっていた(ように思う)。そういう意味でかなり、「都会の中学生」は内面化されていたと思う。

そういうわけで、カナダの州立大の合格を蹴って日本で大学受験を決めた時も当然そういう意識があった。ただし、結果は最悪。ほぼ全ての大学に落ちてかろうじて受かったのが東洋大学だった。小2か小3の頃に箱根駅伝で東洋大が優勝するのを見て、「東洋大学に行きたい!」と言った自分を呪った。ちなみにその時その発言を聞いた同級生は「東洋なら誰でも行けるよ」と言っていたのをセットで思い出す。ちなみにその彼は高校から慶應に行った。

自分の中でも既にかなり凹んでいたけど、それに追い討ちをかけるように周囲の声を聞いてより自分に失望した。今でも仲良くしている(してもらっている)某NPO時代の友人は「ユーロ(僕のあだ名)、東洋なの!?」と、とても素直な驚きコメントをくれたし、当時インターンしていたベンチャーの社長にも「裕太郎は東大とか、早慶行くと思ってた」と言われたりした。こうしたコメントは嬉しさが1割、悔しさが9割だった。自分の自分に対する期待と、周囲の自分に対する期待がそう違わなかったことを実感して本当に苦しかった。

「Start over!」への道

正直、大学は本当にバカばっかりだった。「こいつらと同じ括りで社会に放出されるのか」と典型的な拗らせ大学1年生をやっていた。別に彼らが悪いというわけではなく、ある意味でそういう人と交わらずにそれまでを過ごしていたので今思うとカルチャーショックに近かったと思う。逆に言えば、それくらい尊敬できる人に囲まれて仕事もどきをさせてもらえていた。ただ不幸にも学内で尊敬できるような人には出会えないばかりか、とんでもバカエピソードが続いたこともあって1年の夏には意地でも外部の大学院に進学することを決めた。

「自分の周囲5人の平均が自分」という自己啓発にありがちな言説を結構信じていて、思えば同期と絡むことをやめたのもこれが理由だった。

この時のモチベーションは完全にいわゆる「学歴ロンダリング」だった。(結果してるのでポジショントークだけど、ロンダだなんだとうるさいこと言われる筋合いはないし、本人がいいなら外野は黙っておこうよと思う。某多浪YouTuber以外は)。ということで当初は東大の公共政策大学院とか、公衆衛生大学院を考えていた。専門職大学院だし仕事に直結できるかなーなどと。

2年の後半くらいには様子が変わっていた。僕の研究テーマである「ニクラス・ルーマン」と出会った。ルーマンの説明をすると数万字になるのでしないが、僕が持っていた社会学のイメージを決定的に塗り替えた。それまで、社会学はいわゆる「ヴェーバー的な」方法論的個人主義とその延長にあるエスノグラフィーとか、最近だと現象学的社会学みたいなものと理解していた。しかし、ルーマンはまさに「パラダイムシフト」(ルーマンの社会学におけるパラダイムシフトの話は奥村隆、2023、『社会学の歴史Ⅱ』有斐閣。や那須壽、1997、『クロニクル社会学』有斐閣を参照)を起こした。一般システム理論を社会学に導入し、今やオワコンと化したパーソンズのシステム理論を過去のものへとした。何より「社会システム理論」という言葉の響きに惹かれた。
しかし、ルーマンはとてつもなく難しい。そして研究者が少ない。試しにresearchmapで調べてもらうと分かるが、ルーマン研究者は本当に少ない。一度ルーマン界隈に入るとほぼ全員と知り合うほどしかいない。

ルーマン面白い!ということで僕の肥大化する自我の問題も解決しつつ、ルーマン研究をやれる場所ということで、東大の学際情報学府、総合文化研究科、一橋の社会学研究科、慶應の社会学研究科をリストアップした。慶應の大学院は到底「独立自尊」できるような学費でなかったので諦め、それ以外の3つを受けることにした。

それからの準備は幸いなことに色々な人に助けてもらってそれなりに順調に進んだ。夏は東大学際情報学府と一橋社会学研究科を受けた。今思うとかなりリスキーな選択だったと思う。当時の僕は「To be or not to be」を連呼して周囲に受からなかったら死ぬと言っていた。今は本当に迷惑な奴だったなと思う。すみません。院試と並行して普通に授業にも出て、インターンの業務も全く減らさずやってたので本当受かってよかったねとしか言えない。落ちていたら自分はとんでもないことになっていたと思う。

※追記:忙しくしたのは自分の意思で、むしろ多方面からお気遣い頂いてました。誤解されてしまうと困るので、念のため。

結果、東大は一次で落ち、一橋に受かった。東大不合格の後、翌週に一橋の一次合格発表を控えたタイミングで東大卒の友人と呑みながら議論をしていた際、僕の問題設定の甘さから「だから東大落ちたんだよ!」と言われた。事件に発展することなく、笑い話で済んで本当によかった。

無事に一次試験に合格したものの、二次試験は落ちたと思った。研究計画に関する受け答えはそれなりにできていたと思うが、問題は英語だった。研究に関する問答の後、その場でA4の紙1枚の英文を渡され、その場で和訳し、口頭で説明する。事前情報では上から読んでいくと聞いていたが、当日試験官(指導教授)には、渡された英文の赤枠部分を訳すようにと指示された。頭が真っ白になった。全く英文が入って来ず、なんと2文しか訳せなかった。ここまでしかできなかったと伝えると、試験官は「お、なるほど…」と明らかに驚いていた。本当に落ちたと思った。その後、追加で時間をあげるので読んでくださいと言われたが、既に真っ白な頭にさらに明らかな試験官の動揺を目の当たりにし、全くできなかった。そして試験官に「上野さん、履歴には海外の高校卒業とあるのですが…」と言われ、ヘラヘラしながら「こんな英語の試験の後に言うのもアレなんですが、一応カナダの現地校に通ってました…」と話して試験は終わった。音楽を聴ける気力もなく、呆然としながら家路に着いた。ただずっとそのことを考えているのは苦しかったので、「Big Bang Theory」を見ながら帰った。絶望的な気分(このままだとnot to beしないと…という)もあって、合格が分かった時は本当に嬉しかった。

まだ院には入学していないけど、「自我の問題」から解放された。バカに囲まれたバカ大学で真面目に研究やろうとしてる自分から解放された。むしろもっと嬉しいものだと思ったが、想像していたほど嬉しさは持続しなかった。だから、一概に比較はできないけど、いつまでも「東大卒」、「慶應卒」みたいな触れ書きでメディアに出たり、SNSを頑張っている人は相当愛校心が強くて、ただ講演会でイキったりするんじゃなくて、多額の寄付をして後輩のために頑張ってるんだろうなと思った。

Start over!

この4年間の経過はまさに「期待していない自分」から「Start over!」だったと思う。

けやき坂46『期待していない自分』

この曲の歌詞には以下のようなフレーズがある。

期待しないってことは
夢を捨てたってことじゃなくて
それでもまだ何か待ってること

けやき坂46『期待していない自分』

まさにこういう状態で大学入学前〜院試までを過ごしていた。自分はこうじゃない、ああじゃないと言い前を見ながらも、どこか期待できず、ただ何かを待つしかできなかった。だから『Start over!』がリリースされた時、この曲を聴くのが本当に苦しかった。

こんな夜遅く コンビニのレンジで
弁当温め どんな奇跡待ってるの?
君はきっと分かってるだろ?
いつの間にか諦めてること
だけど 気づかないふりをして

櫻坂46『Start over!』

でもこの曲のこの歌詞のおかげで覚悟が決められた。もう一度奮起して、こういう邪念(=大学の社会的なイメージや周りの環境)から解放された上で真剣に社会学やりましょうよ上野くんと。

これは余談だが、院試期間の7〜9月は本当にこの曲が苦しくて聴けなかった。不登校をやっていた高校1年の時に聴いた『サイレントマジョリティー』は背中を押してくれたが、櫻坂やその楽曲は院試期間の僕を助けてはくれなかった。
「頑張りたいけど、死にたい」期間の僕を支えてくれたのは、SiXTONES『こっから』、サンボマスター『できっこないをやらなくちゃ』、BE:FIRSTのオーディション曲、『To The First』だった。オードリー・若林と南海キャンディーズ・山里を描いたドラマ『だが、情熱はある』も本当に支えになっていた。

2. アンチ・オイディプスと労働

今年は反資本主義、反政府をより強く感じた。その理由はあまりはっきりと自覚していない。ただ政治不信みたいなことが理由でないことははっきり分かる。ただその源泉となるような経験ははっきりと自覚することができた。

ひと言で言うなら、「”労働機械”からの疎外」だ。そしてこのことを受け入れられずに何年かを過ごした。僕が激尖り期を過ごした某NPOで知り合った友人は、クズ人間のような自分の内にある弱さや正義感を受け取り親しくしてくれていた。話せば社会のあれやこれや、組織のあれやこれやをいつまでも、尽きることなく議論していた。しかし月日が経ち、みな「社会人」として社会で活躍し始めると途端に話のテーマは誰がどこに転職したとか、スキルセットがどうこうとか、俗を極めていった。僕だけが学生で、他がみな務め人という非対称な状況はもちろん加味するべきだが、それにしてもなぜこうなった感が強かった。批判ではなく、単純にそうなってしまったことが寂しかった。

そうしてこの寂しさを問題意識に昇華させた時、『アンチ・オイディプス』における諸概念とハーバーマスの「生活世界の植民地化」という概念がこの違和感を説明してくれている気がした。アンチ・オイディプスそれ自体の紹介をするほど哲学屋ではないのでしないが、こうした人々は欲望機械となることもなければ、当然分裂症患者でもない。もはや労働に従属するだけでしかなくなってしまった人だ。つまり「労働機械」として、いかに生産性の高い「仕事」をし、労働市場における自身の価値を高めるか、こういうゲームでしかなくなってしまっているような気がしている。
もちろん、当人たちはそれを認めることは絶対にしないだろう。もし仮に認めるとしても、「資本主義社会では仕方のないこと」や「そうするしかない」といった条件が付される。しかし、本当にそうだろうか。我々には「戦略的な服従」という道はないのだろうか。

つまり、自己の労働マシン化を戦略的に使いこなすという意味である。明確なオルタナティブがない以上、資本主義に対して単に批判を繰り返すだけではどうにもならない。しかし、反抗の姿勢なきままの従属は機械としての性能を競うだけで、まさしく人間が行うべき営みではない。むしろ、マルクスが『共産党宣言』で述べたように、朝と夜、昼と夕方で違う顔を持っていていいはずだ。しかし、時間ができればできるほど、我々は日々を忙しく(仕事の絶対量が増えているという意味で)過ごしている。そうして朝と夜は労働機械として過ごした日中の消化試合のような状況になる。わたし自身、あなた自身が人間として、どのような日々を送りたいのかという根源的な欲求は語られぬまま(語られるとすれば、いかに何を消費するかということだろう)、無意識に労働機械としての自己の価値を高めていくことしかない。ミクロな視点では、人間の労働機械化が進み、マクロ的な視座では資本主義による生活世界の植民地化と表現できると思う。

こうした動きに、市民レベルで対抗するための武器として、反資本主義、そしてその資本主義を国家に取り込んだという意味で反政府主義が1つの解であると考えた。いずれもanti-〇〇の形式を取っているので、必ずしもこれが別様なる何かを示す訳では無いが、少なくとも反対の意思を自覚的に持つことが戦術的服従であると思う。本当はこうしたいわけではない、本当はこうあるべきでないと自覚しながら、そのゲームに乗る。こうすることでしか、オルタナティブの構想などはできるわけがない。

などと気づき、言語化し始めることができた2023年だった。

3. 「挑戦させてもらえた」1年

今年は何より、本当に挑戦させてもらえる機会が多かった1年だと思う。以下ポストでこう言えているのも、自分が努力したというよりも、環境がそうさせてくれた部分がすごく大きい。

まずは何よりもPIVOT。これは完全にそう。「確実にできること」、「頑張ればやれること」、「これから磨くべきところ」の領域が同時並行で拡張していっている感覚がある。具体的に?と言われるとかなり困るところではあるけど、考えるべきことが増えたという言い方はできると思う。つまり、自分が論理的・合理的に行為し、反省的にそれへの言及できることが期待されている場面が増えた。もちろん作業的な部分も多分にあり、単純に忙しくなるということは全然あるけど、どうしたらもっと効率的にできるだろうか?本当に自分がやるべきことか?みたいなことが常に問いとして浮かび、聞かれたらちゃんと説明しないといけないよねというのは民間ならでは?(非営利の方を向きながら)
あと、ちょくちょく「PIVOTどうやったら出れる?」みたいなことを聞かれるんですが、僕にはそういうパワーも何もないので困ります。「え、どうなんですかね?(ヘラヘラ)」リアクションしかできないので…

そしてPMI。11月からだけどすでにかなり濃い。多分、それなりに期待をしてもらっていて、期待に応えられるようにと頑張ってる。参画してから直ぐに実戦投入させてもらっているので頑張り甲斐がある。今は以下の調査設計と分析周りをやったりやってなかったりしてます。

またリサーチ業務の関係で、特に日本社会で起きている諸現象に対しての構造的な理解みたいなものをしようと努めてるなと感じてます。正直あんまり今まで社会保障どうこうとか興味なかったんですが(反政府なので)、実際今国民負担率がどうで、そのうちどれくらいがどうなの?とか。ちゃんと「ニュース」が何を伝えていて、その前には何が起きてどうニュースになっていて、それがどういう問題を孕んでいるか?は毎朝ニュースチェックしながら考えるようになりました(今さら)。なので最近は毎日夜の報道番組とか見ながらずっと野次ってます。

振り返ってみると、どれもこれも、自分で努力して掴み取ったというよりも環境によって頑張る機会をくれた部分が大きい。(良い意味で)本当にそうしたいと願って今こうなっているわけじゃなくて、それは組織の中での僕の動きとか、他者からの見え方によって与えてもらったものばかり。本当に感謝しかないです。ただ一点、結構忙しいスケジュールの中、院試やって、卒論出したという点だけは自分を褒めたい。

4. 失った構想力

1〜3のポイントは割と「得られたこと」や「伸びたこと」だった一方で、圧倒的に失った力の存在も痛感した。それは「構想力」で、ここで言っているのは、「どんな未来社会であるべきか?」とか「社会はこうあるべきだ!」みたいなことを考える力で、その機会も力自体もほぼなくなった。

原因は本当に1つで、それだけルーマン(Luhmann Niklas)に飲まれているということ。後段で10 Best Booksをやっていて、その番外編の中で1冊酷評している本があるが、それとかもまさに、ルーマン屋がどう読むか?みたいな域を出ていなくて、完全にルーマン・システムに縮減されてしまっている。ちょっとカッコつけて言うと「学問的な誠実さ」とも言えるかもしれない。とは言え、本当につまらない人間になってしまった。

5. 2024に向けて

今年は挑戦の年になると思う。去年は主に院試・卒論を指して挑戦の年と言ったけど、今年は学部の4年間では会えなかったような人たちと共に学び、研究することになる。折れそうになることがいくつもあると思う。だから、僕の23年は櫻坂46がそうであったように、飛躍の1年と言っていいと思うけど、今年は我慢の年になると思う。だからこそ、挫けずに挑戦するメンタリティを持って、ドンと構えて1年を過ごしたい。

ただ不安もあって、修士終了後のビジョンがほぼ全く描けていない。研究していたいという気持ちはあるものの、文系博士は色々と厳しいところがある(その後のキャリアも含めて)ので、修士終了後は民間企業に就職したいなとは思いつつ、どうもやりたいことがない。ここの部分をある程度明らかにして、進むべき道のコアとなるような何かを見つけられる年にしたい。

ということで、2023年は大変お世話になりました。引き続き2024年もよろしくお願いいたします。

10 Best Books of 2023

山崎正和『混沌からの表現』筑摩書房

半年だけいた日本の高校の国語の教科書で読んだ「水の東西」が読みたくて1年以上探してた。もう絶版で、中古市場にもほとんど出回ってない一冊。かなり状態のいいものを定価の2倍くらいで買えた。良かった。記述の学術的な正当性はどうだろうかと思うけど、全体を通して凄く一貫した論理で書かれていて、学術論文に疲れていた脳にしみた。水の東西!

アンドレアス・レグヴィッツ『幻想の終わりに』人文書房

櫻坂46のライブでお会いした人文系の編集者の方に薦められて読んだ一冊。フランクフルト学派の気鋭かと思いきやギデンズの後継に位置づけられるとか。やっぱそうなだけあってかなりギデンズを感じる。大味感は否めないが、ドイツに社会学の潮流が回帰していることを実感する。4章が特に面白い。

東浩紀『訂正可能性の哲学』ゲンロン

わざわざ書かずともという感じもするけど凄く面白かった。東さんの著作は読むけど郵便的で躓いてから話半分というか、「消費」で終わってたけどこの本はかなり面白く読めた。この本を自分なりに解釈して、「開かれた訂正の可能性の地平」獲得のための決断主義を実践してみた23年後半。

三木清『構想力の論理』岩波書店

タイトル買いしたら面白かった。哲学にしても社会学にしても、なにかと特にドイツの思想家等々をありがたがるけど、そんなことしてる余裕ないくらい日本にも尊敬すべき思想家・哲学者は多々いることを改めて実感(と言いつつカントが元ネタ)。内容としては割りとタイトルの通りで、行為の哲学についての探求が続く。割と読みやすかった。

佐藤俊樹『社会学の新地平』岩波書店

日本の社会学1年生は『プロ倫』とか『社会システム』とか『福祉国家における政治理論』とか『リスクの社会学』を読む前にこれ読んだらいいと思う。正直下手な教科書より全然読みやすい。そしてドヤ顔で「プロ倫の大塚訳って〜」みたいなことをイキって言って上級生/院生/教員にガッツリリプライされてみてほしい。

柄谷行人『ニューアソシエーショニスト宣言』作品社

これぞ希望の書。ロルドンのやつ読んだ後に読んで良かった。NAM自体は一応失敗したことになってる(『NAM総括』)けど、ニューアソシエーションのアイデア自体は未だ必要だと思う。「第三の道」よりかなり第三の道感あるし。柄谷哲学は読めば読むほど面白いなぁ!(哲学界隈での受容は別として)

レン・フィッシャー『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?』白揚社

シンプルに面白い。ただの人類史的な本かと思いきや、現代社会とも結構明確にリンクされていてド文系人間でも楽しめた。と言うかむしろ社会科学系の人がもうちょっと読むといいのかも。

高岡詠子『シャノンの情報理論入門』講談社

安定と信頼のブルーバックス。講談社は定期的にトンデモ本とかグレーな本出すけどブルーバックスは揺るがない。とにかく分かりやすい。そのうえでシャノン情報理論は少なくとも僕の専門とは繋がらないかなぁ。

デヴィッド・グレーバー『万物の黎明』光文社

こちらも安定のグレーバー。『負債論』を超えた面白さ。人類史を根本から覆したかどうかは分からないけど、現代社会が当たり前にしている諸制度がどういう成り立ちでできているのかがかなり明快に説明されている。ただし二段組かつ600ページ超えなのでかなりの読み応え。

隅田聡一郎『国家に抗するマルクス』堀之内出版

めちゃくちゃ面白い!某経済思想史家のマルクス論とは比較にならないくらい面白いしマルクスに忠実な印象。故にムズいし分かってないと思う。ただ結局マルクスはどういう国家を構想してたのよ?が謎だったので難しいなりに楽しめた。タイトルはピエール・クラストル『国家に抗する社会』のオマージュかな?

番外編

10 bestに漏れたけど面白かった/物申したい本

ニクラス・ルーマン『リスクの社会学』新泉社
もはや殿堂入り。これなきゃ研究計画書も卒論も書けてない。人類はもっとルーマン読むべき。

バーゴ・パートリッジ『乱交の文化史』作品社
タイトルに偽りなし。マジで乱交の話をしてる。近代以降の話かと思っていたら全然前から普通にあったっていうのがもう何というか。人間…となる。安心と信頼の作品社。

フレデリック・ロルドン『なぜ私達は、喜んで”資本の奴隷”になるのか?』作品社
これも絶版。全労働者に読まれるべき一冊。もっと戦おう。ただし連帯して。市場価値とか、スキルとか言って資本に迎合してる場合じゃないよ本当。もっと労働に絶望しよう!

キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等』光文社
まず何よりも著者が自然科学と社会科学の断絶を嘆いていたことで読む速度が上がった。大体こういう学際系のテーマはどっちかのスタンスに寄った上であっちが悪いみたいなこと言いがち。親ガチャとか言ってみたり、「東大に入れないのは努力してないからだ」みたいなこと言っちゃうヤバエリートもどきが出てきた日本で読む意義あり。ただ先行してかなり議論されている雰囲気あるのでそこも参照したい。

ケイト・デヴリン『ヒトは生成AIとセックスできるか』新潮社
新潮社完全にやってる。タイトル詐欺すぎる。原題が恐らく『TURNED ON: Science, Sex and Robots』なので盛りすぎですね。実際本文でこの題名に応答してない。ただ内容は面白い(皮肉にも日本企業がめっちゃ出てくる)のでタイトルつけた編集者だけがbad。

清水大吾『資本主義の中心で、資本主義を変える』NewsPicks Publishing
ちょっとひどい。ふわっとした資本主義解説と問題指摘。根本的な認識違いはまさにルーマンが批判してきたことで、「資本主義」はあくまでゼマンティクの話で構造の話じゃない。つまり、資本主義という意味世界の下部(マルクス的な意味でのinfrastructure)には「機能分化社会」という構造があるわけで、言うならば「資本主義問題」は「機能分化社会の問題」。そう考えるといかに資本主義をいじくることがその場しのぎに過ぎないかが分かる。その上で、「機能分化社会とはことなる社会像(オルタナティブ)を提示できていない。結局資本主義問題の議論に過ぎないでしょ誰も彼も」と批判しているのがルーマン。
これよく勘違いしてる人いるけど、資本主義の問題を資本主義で解決するみたいな言説自体もっとちゃんと考えたほうがいい。特に謎の起業家たちと岸田政権(新しい資本主義)。あと多くの場合、起業家といえど資本家か労働者かで言えば後者の場合が多いので、どの立場から何を言うかも大事だと思う(労働者側に陣取るならちゃんと連帯しようという)。
加えて資本主義の中心があるということは周辺/外部があるということになるけどもはや外部あるか?という感じ。著者のことは知らんので別に何とも思わないけど、これ読んで感動してる起業家とは絶対に話合わないという感じ。

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