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幸田文『台所のおと』

この本の表題作『台所のおと』は、鷲田清一の『「聴く」ことの力 ― 臨床哲学試論』という本で〈ふれる〉と〈さわる〉という概念の違いについて説明する中で、題材に使われていて知った。『台所のおと』について紹介する前に、まずはこの鷲田の『台所のおと』の紹介を紹介したい。とてもぐっとくるので。

「ふれる」のと「さわる」のはどう違うのか。ここで鷲田はもっと多義的な、厚みのある説明をしているが、平たく言えば、「ふれる」というのは相互に干渉がある(「ふれあい」)が、「さわる」はさわる側とさわられる側に分離している。みたいなものとして定義している。

さて、ではこの議論に『台所のおと』がどう関わってくるのかというと、『台所のおと』は(とても野暮に言ってしまえば、)夫婦の心のふれあいが描かれた話だが、面白いことに、鷲田はこれを「ふれる」ではなく「さわる」方の例として取り上げている。4ページたっぷり夫婦の会話を引用した後で、こう続ける。

 ひとを呼ぶとき、叱るとき、讃えるとき、慰めるとき、ひとに語りかけるとき、乞うとき、訴えるとき、ひとは声を出す、音を立てる。声をふるわす、音をあらげる。声をしぼる、音を下げる。そのようにして他者にふれてゆくという契機を、ここであきは、精一杯抑えようとしている。そっとしておこう、ふれないでおこうとしている。音から表情を消そうとしているのだ。つい耳を立ててしまう佐吉の方もまた、音の微かな変調に耳がぴくついている。その変調にこころがひっかかって、その音をひとり反芻している。

『「聴く」ことの力 ― 臨床哲学試論』

あきは、なぜふれないでおこうとしているのか。夫(佐吉)が隣の部屋で病床に臥しているが、あきは医者から、その病気が「なおりがたい」ものだと告げられ、しかし同時に、それを本人には絶対に悟らせてはいけない、と言われているからだ。夫婦は小料理屋を営んでいて、佐吉が倒れてからはあきが代わりに料理をやっている。その台所が、佐吉が寝ている部屋とふすまひとつ隔てたところにある。佐吉はとても腕のいい料理人なので、あきが台所で立てる音から、いま何をどんなふうに料理しているのかまでわかってしまうのだ。だから、あきはその音にさえも細心の注意を払わないといけない。

 あきは伝わることを恐れて音の切面の向こうへ行こうとしないし、佐吉はその音の切面にひっかかって向こうへ行けない。音の壁とでもいうべきものがふたりのあいだに立ったままである。(略)なにも伝えたくないというあきの気持ちが、まるで玉突きのように、あきの所作が立てる音をとおして伝わっている。

『「聴く」ことの力 ― 臨床哲学試論』

ふれあってしまうと伝わってしまうので、ふれないようにしている。音から表情を拭っている。それがゆえに、「さわる」音として伝わってしまう。これは「さわる」ものだけど、同時に「ふれる」ものでもある。さわることを通じて、不可避的にふれあってしまっている。

ではそれがどれくらいふれあってしまっているかというと、いよいよ『台所のおと』の方から引用すると、こんな具合だ。

「いえね、台所の音だよ。音がおかしいと思ってた。」
あきはまたひやりとする。
「台所の音がどうかしたの?」
「うむ。おまえはもとから荒い音をたてないたちだったけど、ここへ来てまたぐっと小音になった。小音でもいいんだけど、それが冴えない。いやな音なんだ。水でも庖丁でも、なにかこう気病みでもしているような、遠慮っぽい音をさせてるんだ。気になってたねえ。あれじゃ、味も立っちゃいまい、と思ってた。」
「いやねえ、人のわるい。それならそうと、いってくれればいいのに。小音だの遠慮っぽい音だなんて、おまえは下手だから、こうやりなっていってくれればいいのに。(略)」
(略)
「――おれが出なくなって最初のうち、おまえもやっぱりいつもよりずっといい音をさせていた。ステンレスの鍋の蓋をするときなんぞ、しっとりと気の落付いた音をさせていたし、刃広庖丁でひらめをたたいてたときには、乗り過ぎてると思うほどの間拍子のよさだった。おぼえていないか?」
「そうね、言われりゃあのときの庖丁、いい気持だったわ。」
(略)
へえ、讃められたの! といいながらも、あきはかなわないと思い、はやく話を打ち切りにしたい。こんな見方、きき方をされていたのなら、きっともはやもう感づいているだろうと思われた。知っていて知らん顔で話しているならなおたまらない。

『台所のおと』

佐吉がはたして、いつから、どこまで感づいていたのか。それは文章中でははっきりとは語られない。しかし、何も知らなかったようにも思えない。あきが佐吉を思って知っていることを隠していたように、佐吉もあきを思って、知っていることを知っていることを隠していたのではないか。そう思わせるような余白がある。ほんの些細な所作からさえも気持ちが伝わってしまうことが、美しくもあり、息苦しくもある。自分も音を立てずに、息を殺して読みたくなる。そんな本。


ちなみに、この本は、ちょうど母親の病気が分かったころに読んで、それ以来何度も読み返していて、けっこう思い入れがある本だった。なので、ちゃんと紹介を書きたいと思いつつ、10年前にも紹介をブログに書いたけど、思い入れがありすぎてうまく書けなかった。今回は前よりはうまく書けたかもしれない。でも、今も言葉を思いつかないままなので、最後は同じ文章を載せておきたい:

伝えたいことを伝えられるわけでもなく。伝えたくないことを伝えないままいられるわけでもなく。音は、ままならない。ちょうど、それを通して伝わってしまう気持ちそのもののように。これを、かなしいことに、と言うべきか、うれしいことに、 と言うべきか。ふさわしい言葉をおれはまだ知らない。

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