流れ出るままに①

欲望を昇華するための描画のよな文の生成をする、そうした、作業のうちから、いったいどんなものが、うまれてくるというのかと、その先のことが、気になりはするものだけど、先を考えて歩くなど、つまらんこと、道はただただ、歩くだけのことをする場所だから、ただ、歩く、をしてみているのだろう。

文章を、演奏するようにと書くことが、わたしには、得意なのか、得意だという。保坂さんもまた、得意だろうと思う。流れ出すままに思考を展開する仕方のことがここでは対象として、語り出されていると思う。

半ば半自動的に物事が選択されていくようにして書かれる文字もまた、わたしの意図などを超えたところで唸りたち、そうして自らを生成する。そのことに、違和感というものはなく、ただただ、思考の流れがみずからの堰を切り、湧水のよに流れ出すのを、見守るのだから、それは、河にも、似ている。

河の流れのように、そう歌っていた美空ひばりの歌声が、ふいに脳内に流れ出すから、わたしはその歌声にふれられてふと、そのことが気になってくる。聴覚的なイメージ作用のことがこの頃ふいに、気になりはじめていて、論文を、探してみたりもしたものだが、視覚的な、あるいは触覚的なるものにまつわるイメージ論考はよくみかけるものなのだが、聴覚イメージに関する論は、あまり多くは世に出回ってはいない、という印象を受ける。今、ぼくのただなかに、鳴り響いたあの美空ひばりの歌声は、実際に、物理的な音響としてわたしの肌や耳や、内臓や知覚、感覚器官をふるわせたものではないのだからそれは、おそらくはひとつの、わたしのなかに生起した、「聴覚的なるイメージ作用」としても、考えうるものであるのだ、と思える。

音が鳴り聞こえるという現象は、あまりにも、普段の日常生活のなかでも、あたりまえのことだからわたしにはあまり、普段から、意識化されるものではないのだが、それは、よくよく考えてみると、不思議なものに違いはなくて、端的に、「よくわからんなあ」という印象を、心象として抱かしめてくるものだ。なにかを聴くということは、いったいどういうこと、なのだろうか。

知っているけど、知らないことが、多くある。聴くこともまた、そのひとつだ。人の話を聴いているときにわたしはいったい、どのようにしているのだろうかと、問いかけてみたとしても、わかるところと、わからないところとが交錯してもつれあい、わかるよな、わからないよな、よくわからない気持ちがするものだ。わからないことばかりがわたしの身には、あるのである。

岡潔は、人間が、立ったり座ったりできることの、その仕組みをすらひとはまだ、よくはわからないのだから、というようなことを、書いていた。たいていのことは、よくよく考えてみると、つまりは「体感としてはわかる」けど、「知識としては認知や認識をされてはおらず」、つまりは「よくわからない」ものだと思える。わたしは、わたしがどうやって生きているのかも知らずに生きているし、この地球という惑星が、どんなふうにして何十億年という時間を生き永らえてきたのかも、知るよしもない。

惑星ということでいうと、わたしは一時期、音楽を聴くとその音楽に対応した星が見えてきたりもしたな、と思い出される。ある一曲の音楽を聴くことで、その音楽イメージがある惑星の形や色にと変換されて、目の前に実際に、廻る星としてvision化されていたのだと、今ではそう、思っているのだが、それもまた単に、「共感覚」という言葉で割り切ってしまっては語り得ない深淵を、宿しているものにも、思える。

中村雄二郎は、主著のひとつである、『共通感覚論』において、アリストテレスの論考を引きながら、人間の諸感覚、とりわけ「五感」と呼び慣らされてあるものたちを統合する、体性感覚などの基層的なる感覚についての論理を展開していたけど、あれなどを読みながらでも、どんどんと、見知らぬ宇宙の只中へと突入する、人体というミクロコスモスのわかり得なさをまた、しずしずと、体感されてくるような気持ちになるものである。

庭文庫の庭で、常連のゆかちょに習いながら、太極拳をやっていた日々のことがふいに、わたしの意識に飛来してくる。

太極拳は、かつては北斗七星を大地へと降ろして、それを踏み歩くものであったという話が、確か『文化のなか野性』に出てきたな、と思い出される。星を踏む、踏み歩くというその感覚に、言いようもなくなにかを感化されてしまったな、と今その感覚が、わたしの肉体を呼び覚ますのを、感じている。

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