年末のご挨拶
本年お世話になりました。
先日、職場の忘年会でうれしいことがありました。
ある若手の職員さんから「田辺さんと握手しないと、年を越せないです。今年は本当に面白かったです。女性起業支援でどんどんいい笑顔が広がり、大きな感動です。役所で価値創造ができるなんて」。
お互い、今春以来の汗と涙を感じて感無量の中、熱い握手を交わしました。
ご案内の通り、東京をはじめ日本各地が閉塞し、撤退戦が続く中で、新しい価値創造ができる面白さを体感し続けられました。
「失った35年」と今年報じられ、現代日本は人口減しながらバブル後の敗戦処理中という見方があるかと思いますが、「ないものねだりでなくあるもの探し」に立つと、敗戦処理の閉塞感を大きく上回る価値創造を開始できるのです。
今年度は来年3月までありますが、今年1年で2年分の仕事をした感はあります。
そして今春の飯田移住後、「東京以外の物差しが、飯田に歴然と存在する」と学びました。
「奪い合いでなく、分かち合いを」。
「先生はいらなくて、各自が学びたいことを学び始めるのが自治の第一歩」。
「ピラミッドを作って威張るのは美しくない。平場文化が重要」。
東京は、もはや戦場と思います。私は東京を故郷とし、都内に長年暮らしてきましたが、街から殺意を感じる毎日でした。例えば通り魔がいつ襲ってくるか。女性や子どもならば(性)暴力。非正規雇用の場合、今月は生きられても来月は路上生活になるかもしれない。
一方、飯田に今春以来住んで、街から殺意を感じないのです。ほうきで掃除する音が時折響き、見知らぬ人にも声をかける。
戦場でなくて、人間が安心して暮らし続けられる平和がある。
飯田そして長野県は森に囲まれていますが、「森は巨大な空気清浄機」と気付きました。
劇作家の岸田國士は第二次大戦で都内から飯田に疎開し、少なからず精神的にも火傷を続けた都内の暮らしから、飯田で平和な日々を送れたとして、大きな感謝の感情から「飯田の町に寄す」を記しました。
注目したいのは
"老若男女、みなそれぞれの詩と哲学とをもつ町"
です。
ふと考えさせられたのは、明治維新以来、いえ、江戸開府以来、「東京に哲学はあっただろうか?」
お金や権力で各地を服従させる手法はあっても、哲学は東京に無かったのではないか。
飯田には哲学があります。
それは東京の物差しと歴然と違う、5世紀以来、政治経済文化活動が続く、飯田固有の物差しゆえです。
一方、飯田は有史以来、地元の人たちは文字に飯田の記録を残すことを控えたともお聞きしました。あたかも無文字文化です。
なぜなら、「飯田が良い土地と知られると、いろんな人たちが来てしまうから」。
一方で、今や各地が東京砂漠の商業化の熱波に覆われつつあり、飯田ももちろん例外ではありません。
各地から東京への羨望は今も高まり続け、今後も都道府県の中で東京だけが人口増を続けます。
しかし、長年都内で仕事をして痛感するのは、各地が東京のコピーとなった結果、今や東京はネタ切れしたのです。
もう新しいアイデアが東京から出てくることはほぼなく、むしろ日本各地の多様性こそが、日本の夜明けを導いていくと確信します。
「東京という首都のみに人口集中する」とは、あたかも途上国の首都のようで、日本は実は先進国ではなかったとすら私は思います。
むしろ、日本が真の先進国になるのは、地方が豊かになり、多様な日本が実現してこそです。
少なくとも私は、東京に留まっていては、日本が真の先進国になるための貢献はできなさそうです。
東京砂漠で日々燃え盛る炎の中、戦場のナイチンゲールのように獅子奮迅される方々もおられ、飯田移住後に私は負い目を感じる自分にも気付きました。
ですが、飯田はじめ各地が、東京砂漠で火傷し続ける数百万人の方々の新たな選択肢になれるよう、自分は自分の持ち場を担うべきと思い返しました。
今春以来、折々で申していますが、もしも幸いにご縁が続けば、私は飯田に骨を埋めたいと思っています。
人口10万人弱で、日本によくありそうな、一見何も変哲のない飯田。
南アルプスと中央アルプスの美しさを満喫でき、自然資本に富み、松本や白馬のような日本を代表する一大観光地になりそこねたかもしれない飯田。
ですが、何世紀も飯田人の方々の根底を流れ続ける、見えない宝物たちが豊富です。
日本のオアシス、飯田。
まだまだ謎は尽きません。
客観的な立ち位置を忘れない参与観察なのか、すっかり飯田を故郷と思うほどの地元愛なのかは、まだよくわかりません。
ですが、社会人になって以来、例年年末で「来年はどうなるだろうか」と不安を感じていた年の瀬でしたが、今年は心から安心を感じられています。
日本の夜明けに向けて貢献できる手応えと、うれしさを感じられる年の瀬になれて、ご縁をくださった皆様に、心から感謝を申し上げます。