NOW WE ARE SIX 6歳
ミルンの上記の題名の詩を訳してみました。
イギリスでは人生において6歳、60歳と言うと何かしら重要な年と言うことでしょうか。以前、『60歳になったら』と言う詩のことを記事にしましたので、ふとそんなことを思ってしまいました。
それとも6と言う数字に何らかの意味があるのでしょうか。
6歳と言えば日本では小学校にはいる年、それまでとは違い、ちゃんとお勉強を学校でするようになると詩ですよね。イギリスではその辺は少し違うように見えますが。確かもう少し早くから学校に通うようになるのでは、と思います。
ミルンはあの『クマのプーさん Winnie the Pooh』を書いた作家です。
NOW WE ARE SIX
When I was one,
I had just begun.
When I was two,
I was nearly new.
When I was three,
I was hardly me.
When I was four,
I was not much more.
When I was five,
I was just alive.
But now I am Six,
I'm as clever as clever,
so I think I'll be six now for ever and ever.
六つだぞ
一つの時、僕は何もかも初めてだった
二つの時、僕はまるっきし生まれたて
三つの時、僕はまだまだ僕ではなかった
四つの時、僕はまだまだ大きくなかった
五つの時、僕は何とか生きていた
だけど、今、僕は六つ
僕はありったけおりこうさん
だから僕はいつまでもずっと六つでいよう
Yutaka訳
6歳の時を思い出しましたか?幼稚園の卒業式、小学校の入学式、などなどはるか昔になってしまいましたが、はっきりと思いだします。
6歳の時と60歳の時を比べるとどうなんでしょう?
6歳の時の方がはるかに自由だった?
時間だけでなく考え方や全てが?
行動範囲も私なりに、6歳なりの世界の中を自由に移動していたような気がする・・・。
近所中の台所、家の中を我が物顔で歩いていたような気がする
近所中の台所、家を知っていた私
近所中の人たちが昔からの知り合い、彼らは私よりはるか昔から生きていた人たちなのに
私と同じ時からそこに存在しているように感じていた
そこは私の古里
はるか遠い昔にそこを旅だった気がする
長い長い年月
その間に、なまりは消えてしまった
私はそこの人たちのなまりをもうしゃべらない
だのに、そこに帰るともうそのなまりをしゃべっている
なぜだろう
長い長い年月
その間に、大勢の新しい顔が嫁いだり生まれたりした
知らない人ばかり
だのに、そこに帰るとずっと前から知り合いだった気がして話しかけている
古里って、そんなもの・・・?
書いていたら詩になってきた。
それにしても、幼い時の無邪気な思い出って自分ながらいいなあ、と思います。
何かを一生懸命思っていたとか、何かを一生懸命見つめていたとか、何かが絶対こうだ、と思い込んでいたとか、いや、本当はこうなんだとか。
古里、幼年時代、と書き始めるだけで物語が書けそうです。