仮初の回答に自信が持てる日
山手通りを初台方面に向かうバスに乗ったのは夜6時を回った頃だった。
友人に尋ねたいことがあって連絡したら、その流れで急遽一緒に夕飯に行くことになった。バッグを持っていきたくなかったので、コートのポケットに財布とスマートフォン、それに『えーえんとくちから』(笹井宏之著)という歌集をつっこんで家を出た。
適度に混んだバス車内は、スマートフォンの画面に目を落としているせいか、嘘みたいに静まり返っていた。バスのエンジン音、運転手の声、そして車内アナウンスが、その静かさをより強調した。席はあらかた埋まっていて、私の他に2名が立っていた。私は立ちながら読み始めたばかりの歌集を開いた。
ところで、"Please don't leave your seat until the bus stops at the bus stop"というアナウンスの、"the bus stops at the bus stop"という部分に、強い違和感を抱くのは私だけだろうか。それを聞いても、誰ひとりとして首を傾げることなく、全員が全員スマートフォンと睨めっこを続けているから、きっと全く気にならないのだろう。はじめて耳にした時から違和感だったが、何度聞いてもその違和感が拭い去られることはない。
吊り革につかまった私の前には、横長の優先席に座る30代くらいの男性と5歳くらいのその娘。男性はスターバックスのグランデサイズだと思われる紙カップを左手に、右手には全員に倣ってスマートフォンを握っていた。どういうわけか、彼の右にいる娘に半ば背を向けるような形で左斜め前方向に身体を捻って座っていた。
スポーツブランドのカーキのダウンジャケットを着ていた彼からは、不思議と“父親らしさ”を感じなかった。きっと年齢は私と同じくらいか、あるいは少し若いかもしれない。独身子なしの私がいうのも変だが、5歳の娘の父親としては一般的な年齢だろう。ただ、そのくらいの年齢の子持ちの男性は、たとえ服装や雰囲気が若くても、どこか別のところで父親らしさを醸し出しているものだが、その彼にはそういった部分が微塵もないように思われたのだ。一瞬、ふたりは別々にバスに乗り込んできた、全くの赤の他人なのかもしれない、とさえ疑ったほどだ。
もちろん、そうではなかった。静まり返ったバスの中で、娘が彼に話しかけた。
「ねぇはなちゃんがね、はなちゃんがね」
ひそひそ声、とまではいかなかったが、そのボリュームはかなり控えめだった。私は幼稚園だか保育園の友達であろうはなちゃんに何があったのか、早く続きが聞きたかった。
「しーっ、静かにして」
彼はそう娘を制した。バス車内での会話において何ら問題にならないボリュームであったにも関わらず、だ。そう言うだけ言って、彼はすぐにまた自身のスマートフォンに向き直った。
このやり取りが3度ほど繰り返された。それらはどれも全く同じだった。娘ははなちゃんのことを語ろうとする。その音量に全く問題はない。それでも男性は「しーっ、静かにして」と制止する。彼はすぐにスマートフォンに目を落とす。
諦めた娘は、特段不満そうな顔をしていなかった。きっとこれがいつものことなのだろう。そもそも最初から話を聞いてもらえるなんて思ってすらいなかったかもしれない。
男性が娘の言葉をそうまでして止めた理由はよくわからない。彼は本当に周りに迷惑をかけていると感じたのかもしれないし、単純に疎ましく思ったのかもしれない。もしかしたら、その時に限ってどうしようもなく疲れていて、はなちゃんの話を聞くどころではなかった、ということもあり得る。
それがどういう理由であれ、もし私が彼の立場だったら、私はその女の子のたどたどしい話を、きちんと聞いてあげることができただろうか…と自問した。私はとりあえず出してみた自分の回答に、自信が持てなかった。
半年ほど前に女の子を出産した友人の家によく遊びに行く。だいたいそこには他の女友達何名かと一緒に出向くのだが、6ヶ月のその女の子は、私と目が合うと大泣きしてしまうのだ。
「パパ以外の男性にほとんど会ったことがないから、男の人にびっくりしているのかもしれない」
と、大泣きする娘を抱きながらその母は、娘ではなく私を慰めてくれる。
彼女の大泣きを、私はバス車内でふと思い出した。それはあるいは、「まだ君は父親になるには早すぎるんだよ」という警告なのかもしれない。子どもができたときに、バス車内の彼のような態度を、私もとってしまうのだろうか。
いずれにしても、今そういうことを考えても意味がないだろう。それは机上の空論でしかない。もし本当に誰かの親になった時に、今日の私をガッカリさせないように、私はなれるのだろうか。
いつか、私が今日出してみた仮初の回答に、自信が持てる日が来ることを願っている。
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