見出し画像

歯車を直す

書きたいことはあるのだが、それをうまく言葉にできないということがままある。

スラスラと書き始められる時は、書きたいことがあり、かつそれをすんなり言語化できる場合となる。そのふたつは互いに完全に独立しているわけではないものの、かなりの部分異なるものだ。よって、書きたいことが強くても書けないときは書けないし、書きたいことがぼんやりしていたとしても、場合によってはスルッと書けてしまう。

今日は、大きな大きな書きたいことがあるにも関わらず、筆が全く進まない日だ。外は暗く、風が強い。


半年ほど前に仕事で関わった人の訃報を、今日たまたま目にした。年末に急病で倒れ、闘病も虚しく、年明けに亡くなったらしい。急すぎる死であり、若すぎる死だった。

仕事の打ち上げでその方が何をしているのか、携わっている業界がどういう状況なのか、その中でどのような役割を担っていると自負しているのか、という話を聞いた。大変面白く、先方も私の話を面白がってくれたこともあり、「また東京で会いましょう」と言い合って地方の山奥でお別れをしたのが最後になってしまった。

お別れの時には「きっとまたどこかで会うんだろうな」という直感のようなものがあったが、それが叶わなかったことを見るにつけ、直感などというものがいかにアテにならないかを思わずにはいられない。あるいは、私の直感が他の方々のそれよりもずっと鈍いのかもしれない。だいたいにおいて、私は愚鈍なのだ。


訃報を目にしたのはInstagramだった。フォローしていたアカウントの中に、その方が携わっていたプロジェクトがあったのだ。何気なく見ていたフィード投稿に急に見覚えのある名前が出てきた。その直後、「逝去」の2文字が読めた時、とかく驚いた一方で、にわかには信じることができなかった。誤報なのではないか、あまり一般的な名前ではないがもしかしたら同姓同名の人違いなのではないか、と、冷静になればありもしないことを想像してみたが、関係各所へ連絡した結果、それが事実であることが最終的にわかった。

全身の力が抜けた。

すごく親しかったというわけではない。たった一度会っただけだ。ただ、仕事人として強い好感を抱いていた。それに、一度だけではあったが、一緒に“いい仕事”をした経験もあったので、思いがけず私は大きなショックを受けている。安らかな眠りであったことを、心から祈っている。


個別的な死に触れると、一般的な死へと考えが及ぶ。その方と一緒に仕事をした時に、その半年後にお別れが来るなんて、全くもって想像することができなかった。それは彼に個別的に訪れた死だが、どんな人にも普遍的に起こり得ることでもある。それが今回たまたま彼だった、ということだ。私が死に選ばれていた可能性もあったはずだ。

「一寸先は闇」とはよくいうが、改めて本当にそうだと思う。人はいつ死ぬかわからない。

一般的な死を思うと、また個別的な死について考えてしまう。もちろん、それは私自身の死について、だ。私の人生はまだ先が長いように盲信しているが、意外なところに思わぬ落とし穴があって、若くしてあの世へ旅立ってしまうかもしれない。もしかしたらこのnoteが投稿される前にお迎えが来る可能だって、否定はできないのだ。


2年前に亡くなった母のことを思った。長年病気を患っていたことで、長生きは望めないと考えていた彼女は、余命宣告を受けても慌てなかった。彼女の中では、ずっと前から準備ができていた。死の恐怖は、とっくに乗り越えられていたのだ。

それよりも彼女は、別れを悲しんだ。特に私との別れだ。別れの前、彼女は私に、「裕太は私の全て」と言った。その言葉は本当という真紅で染め上げられていた。


死にゆくその方は、どのようなことを考えたのだろうか。恐怖に怯えていただろうか。それともわりとすんなりと自身の運命を受け入れていたのだろうか。

死にゆく私は、どうなのだろう。死はいつ訪れるのだろう。


「一人称の死はない」という言葉にはじめて出会ったのは去年読んでいたとある本の中だった。自分の死を経験する時、経験する主体である自分も同時に死ぬので、それを認知することはできない、という主旨だ。

ただ私は、今日の訃報を受けて、「一人称の死」というのは断片的に存在しているように思った。二人称や三人称の死、あるいは死ではない単純な別れを通して、私の中で死が徐々に内面化されていく。それはもちろん完璧な死からは程遠いが、完璧な死の前に訪れる、手触りのある死の一部であることには間違いない。


書きたいことの欠片を文字にして、それを寄せ集めて、なんとか私はまとまった文章を書くことができた。ただこれは、本当に当初書きたかったことなのかと問われると、疑問が残らないでもない。書きたいことが書けたような気もするし、なんだか頓珍漢なことばかり綴っているようにも思われる。

きっと私は少し混乱しているのだ。ほんのちょっとだけ歯車がずれている世界の中で、その歯車の齟齬を直すべく、試行錯誤しながら筆を動かしている。


明日にはまた少し、歯車が元に戻っていますように。


【çanoma公式web】

【çanoma Instagram】
@canoma_parfum
 #サノマ #香水 #フレグランス #ニッチフレグランス #canoma #canoma_parfum #パリ
#フランス

いいなと思ったら応援しよう!