忘れ物を取りに
「あ、ごめんなさい、ちょっと待っててもらっていいですか？」
羽田空港に向かう時は、新宿のバスターミナルからリムジンバスに乗ることが多い。荷物が少なく時間に余裕があれば、本当は浜松町からの東京モノレールが好きなのだが、スーツケースを引きずりながらの乗り換えは億劫だし、混み合う電車もできれば避けたいので、めっきり乗る機会が減ってしまった。一方のリムジンバスは、初台から長く続く首都高速の地下トンネルが、閉所恐怖症の私には息苦しく感じられてしまうし、トンネル内のオレンジ色のライトもいまだに好きになれない一方で、乗ってしまえば空港まで到着する利便性には代えられない。そんなこんなで、不本意ながら渋々リムジンバスを選択する日々を私は送っている。
若い頃はそうではなかった。荷物が多くても、乗り換えが大変でも、私は東京モノレールを選んでいた。品川からの京急線の方が便利な時も、私は頑なに東京モノレールだった。東京の運河沿いを、少しだけ高いところから眺めるのは、私を特別な気持ちにさせてくれた。旅の高揚感や、東京に戻ってきた安堵といった、旅と日常の間に横たわる気持ちの上げ下げに、それは一役買っていたのだ。
東京モノレールが好きなのにはもうひとつ理由がある。中高時代、親元を離れて佐賀の山奥で寮生活をしていた際の東京への帰省時は、羽田空港から必ず東京モノレールに乗った。その理由は単純で、そのルートしか知らなかった、というものだが、それが故にモノレールの車窓からの風景ともうすぐ母に会えるという胸の高鳴りは幾重にも塗り重ねられた。今でもモノレールに乗ると、あの頃の喜びが思い出される。母にはもう会えないのが残念でならないが。
上海経由でパリに向かうフライトの出発時刻は朝8時半。余裕を持って朝4時40分のリムジンバスを予約した。私は移動にはたっぷりのバッファを取りたいタイプなのだ。
前日は夜12時過ぎに寝て、今日は朝3時に起きた。不思議とスッキリとした目覚めだった。お風呂に入り、朝ごはん代わりに干し柿を食べた。家を出るまではまだ余裕があったので、改めて荷物をチェックした。最後の最後に迷った挙句、イタリア語の参考書をスーツケースに突っ込んだ。勉強、ちゃんとするかな…？
大小ふたつのスーツケースに大きめのショルダーバッグを持っていくことにした。大きいスーツケースは主に衣類でパンパンになった。ファッションウィーク関連の仕事が入っているためだ。小さい方は食べ物や調味料、それに本。今回は滞在が少し長いので念のため“日本”を詰め込んでおいたのだ。それぞれのスーツケースは重量制限目一杯になった。
朝4時過ぎに配車アプリでタクシーを呼んだ。5分ほどで家の前に着いた車から出てきたのは、丁寧すぎるくらい丁寧な運転手だった。言葉遣い、荷物の扱い、ドアの開け閉め…お抱え運転手というのは、あるいはこんな感じなのだろうか、と想像しりなんかした。
冒頭の言葉を発したのは、タクシーが発車して20メートルほど進んだところだった。忘れ物がないか、しっかり確認して出たが、案の定大切なものを忘れていた。
ピアスだった。
昔はじゃらじゃらとあちこちにアクセサリーを散りばめていた。手の指の半分以上に指輪がついていた時期もある。
ただ最近は、私の身体でカチャカチャジャラジャラと音を立てていたアクセサリーたちは、その出番を失っている。指輪やバングルはひどく煩わしく感じられるのだ。たまにネックレスをつけるが、それも軽いものに限られる。
そんな中、左耳のピアスに限っては、ほぼ毎日何かしらつけるようにしている。これに関しては、つけていないとなんだか落ち着かない。
お気に入りのピアスはいくつかあるが、出張の時は必ず蝶と丸いターコイズのものにしている。そうしているのはターコイズには「旅のお守り」という意味があると知ってからだ。案外そういった“迷信”めいたことを大真面目に受け止めてしまう。
タクシーを待たせて急いで家に戻った。玄関のアクセサリー入れからピアスを拾い出し、おもむろに左耳にあしらった。複雑なジグソーパズルのピースがうまくはまった時のような心地よさがそこにはあった。
家を出ると、少し進んでいたはずのタクシーがわざわざバックで家の前まで戻ってきてくれていた。私はそこに、“幸先の良さ”を見た。
タクシーはスムーズな運転で、ガラガラの山手通りから甲州街道に入る。そのスムーズさは、私にもう家に戻れないことを悟らせる。
ここから先は、流れに身をまかすだけ。仮に忘れ物があっても、現地で調達するか、それなしでやりすごすか、だ。
でも大丈夫。私にはターコイズがついている。いつだってふわふわと漂う蝶だけど、水色の石が導く先は、きっといつだって素敵な場所なのだから。
出国前に書き上がったこの記事を投稿するのはパリ到着後。この先、何も問題が起きないことを祈っている。
無事に私を運んでね、ターコイズさん。
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