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赤、青、黄、そしてジプシー
家を出たのは朝7時過ぎ。
エレベーターでふたつのスーツケースを下ろしたところで、忘れ物に気がついた。スーツケースを置いたまま上まで取りに戻り、改めて忘れ物がないかを確認した。今度こそ大丈夫であることを確かめ、下に降りたところで、私はなんだか疲れてしまった。これから東京までのロングフライトが待っているというのに。
外は今回のパリ滞在を象徴するような、今にも泣き出しそうな曇り空だった。気温は8度。厚手のニットに春物のコートに着てふたつのスーツケースを転がすと少し汗ばんだ。
バス停について10分ほどでバスが来た。車内には5人ほどの乗客がいたが、乗った次のバス停で3人が降りた。そこからもひとり乗り、またひとり降り、が繰り返され、バスの中は2、3人の状態が保たれた。
私はなんだか憂鬱だった。それは家を出る直前に受け取った、あまりよくないニュースのせいかもしれないし、寝不足のせいかもしれないし、あるいはこの天気のせいかもしれない。いずれにしても、私は何もかも投げ出したくなっていた。
人の少ない朝のパリを車窓から眺めていると、はじめてパリに来た遠い昔のことが思い出された。2012年10月のことだった。新卒で入った金融機関で馬車馬のごとく働いている中、急遽1週間の休みを言い渡されての旅行だった。
そうか、あれからもう干支が一周してしまったのか。
私はその時24歳で、社会人になってちょうど半年経ったところだった。その半年後に会社を辞め、3年後にパリに住むことになるとは、もちろん全く想像できなかった。
ぼんやりとした頭でその1週間の旅行のことを思い出してみると、赤、青、黄の3色が浮かんだ。
赤は、当時パリに住んでいた友人と一緒に行ったバーのソファの色。歴史ある古いバーで、ピアノがあったこととベルベットのその赤いソファのことしか覚えていない。私はそこで何を注文したんだっけ。今もそのバーはあるのかな。
青は、日本からCharles de Gaulle空港に到着した時に目に入ったスーツの色。背の高い黒人男性が、小さなシルバーのスーツケースを引きずりながら、その青いスーツを纏い颯爽と歩く姿が、私のパリとの最初のコンタクトになった。今まで様々な都市に降り立ったが、それ以上に強烈で鮮明なファーストコンタクトはいまだにない。
黄は、パリ左岸にある、ガイドブックに小さく乗っていたレストランの色。そのレストランの何が黄色だったのかは全く覚えていないが、私の中の記憶でそれは様々な黄色とともに蘇ってくる。運ばれてきた皿に繋がった、笑顔の素敵な女性店員さんの腕の裏側に、呪文のような刺青が走っていた。私はその、満月の皿を捕まえる呪文の手を、ひどく幻想的にデフォルメされた形で思い出すことができる。
その旅行の際、私は学生の頃に買ったポールスミスのセットアップと安いストレートチップの革靴でパリの街を歩いた。「お店でなめられないように、ジャケットと革靴がいいよ」と誰かに吹き込まれたからだ。結果的に私は、どこのお店に行ってもそこそこいいサービスを受けたのだと思う。あの時のセットアップと革靴、まだどこかにあるかな。
あの時の私は、本当に恐ろしいほどに何も知らなかった。だから何も怖くなかった。色々なことを知ってしまった今、私は怖くて怖くてしょうがない。もう一歩も踏み出せないほどだ。
オペラまであと数駅になった時、私はとうとう最後の乗客になった。その時ふと、最初のフランス旅行の帰り道のことを思い出した。
その時もオペラにいた。そこから空港へと向かうバスに乗ろうとしたのだろうか。あまりよく覚えていない。
大きなスーツケースと、Yves Saint Laurentの大きなショッパーを持った私に、突然ジプシーの女の子ふたりが襲いかかってきた。女の子とはいえふたりがかりだし、荷物が邪魔だし、でうまく振り払えない。
それを向かい側の道を歩いていたフランス人男性が、大声をあげながら道を渡り、振り払ってくれたのだ。ジプシーの女の子ふたりは散り散りに逃げ、私は呆然としたのちに彼に何度も感謝を述べた。
英語がほとんどできないようで、フランス語で厳しめに何かを言われた。多分「注意しなきゃダメだよ」ということだったんだと思う。お礼をしたかったが何もなかったので、お金を渡そうとしたのだが、頑なに断られた。
オペラで降り、空港に向かうバスに乗り換えた。珍しく日本人が多い。半分以上が日本人だ。
この文章はそのバスに乗ってから書き始めたものだ。オペラを出て40分ほどになるだろうか。もうすぐ第一ターミナルに着く。私が搭乗する第二ターミナルまではまだもう少しある。思いがけず、バスの中で1記事書くことができた。よかった。
第二ターミナルに到着するまでの少しの間、この憂鬱な気持ちが少し晴れてくれるかな。
赤、青、黄、の思い出たちと、ジプシーから助けてくれたフランス人男性が、今でもどこかで元気にしていることを、密かに願いながら、私はもうすぐ空港に着く。
またね、パリ。
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