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猫の記憶、記憶の猫

日本時間午後2時からの電話会議は、ここフランスでは朝6時から開始された。前日は夜深くまでおしゃべりをしていたので、4時間程度の睡眠で電話会議に臨まなければならなかった。1時間きっかりで終わったその電話会議の後も、方々に電話をかけたりメールを返したり、とバタバタした。

ただし、今日に限ってはそれがあまり苦痛ではなかった。それは午後に楽しみなことが待っていたからだ。


11時過ぎに家を出てBastille駅の辺りまで向かった。延々雨続きのパリだが、少しだけ明るい午前中だった。少し早く到着した私は、待ち合わせ場所であるサンドイッチ屋付近で佇みながらヘッドホンで音楽を聴いていた。ランチ前でまだ人も車も少ない時間帯だった。

5分も待たずにAnne-Sophieが現れた。私が語学学校に通っていた時の先生だ。語学学校には2015年10月に入学したので、かれこれ10年近い付き合いになる。

毎回パリに戻る際は会うようにしている。それは彼女に会うことも大きな目的なのだが、彼女が飼っている3匹の猫に会うこともそれと同じ程度に重要なイベントなのだ。


ここ数ヶ月、彼女が親の介護等で疲弊していたことはなんとなく知っていたので、ひどくやつれていたらどうしよう、などと考えていたが、とりあえずは元気そうな笑顔が見れたので安心した。私たちはそれぞれサンドイッチを購入し、彼女の家へと向かった。

歩きながら、ここ数日のファッションウィークの仕事について説明した。パリの人でも一般的には「ファッションウィーク」という言葉さえ耳馴染みがないものなのだ。ショールームをいくつも周りバイイングをしたことや、今回はショーも観ることができたことなどを話した。


家に到着すると、体調不良で学校を休んでいるAnne-Sophieの娘がいた。5歳の頃から知っているがもう14歳。大きくなったものだ。


アテナ、ニュシュカ、ムシュのうち、ニュシュカだけがダイニングルームにいた。早速モフモフすると、すぐに喉を鳴らしながらお尻を高く上げた。

Anne-Sophieがバカンス等で家を空ける際、猫たちのお世話をするのが私の仕事だった。もちろん、私は嬉々としてその仕事を引き受けていたのだが。

3匹のうち私の一番のお気に入りはニュシュカだった。アメリカンショートヘアの女の子で、一番甘えん坊だった。他の2匹も可愛かったが、特にニュシュカに愛着があったのは、ニュシュカの方でも私のことが気に入っているように私には感じられたからかもしれない。

「ニュシュカはユータのこと、ちゃんと覚えているのかもね」

Anne-Sophieは言った。私にはイマイチその自信はなかった。きっとニュシュカは、誰にでも甘えん坊で、特段私にだけゴロゴロ喉を鳴らしているわけではないんだ、と自分に言い聞かせた。


Anne-Sophieとその娘と私の3人での話題は多岐に渡った。ファッションウィーク、フランスの産業の衰退、語学学校の迷走、çanomaの現状及び展望、Anne-Sophieのお父さんの病気、Nikeのスニーカー、などなど、話は尽きなかった。その間、アテナとムシュも私に挨拶に来てくれた。ニュシュカは私の近くの椅子の上でずっとお昼寝をしていた。

ニュシュカが目を覚ましたところで、またモフモフを開始した。彼女の“勘どころ”はだいたいわかっている。毛並みに沿って、シャンプーをするように指を立てて背中をマッサージをしてあげつつ、定期的に尻尾の付け根付近を叩いてあげる。あとは彼女が撫でてほしいところを身体で示してくれるので、それに従えばいい。慣れたものだ。

手を休めてまたAnne-Sophieたちと話を始めると、ニュシュカは小さく「にゃー」と鳴いて私の手を求めた。それが何度も繰り返されたのを見て、Anne-Sophieは、

「他の人にはそんなに“厳しく”ないから、やっぱりニュシュカはユータのことをしっかり覚えているんだね」

といった。


また近々会う約束をして3時ごろに家を出た。外は冷たい雨が降っていた。ここ最近のパリの天気にはうんざりする。雨の降らない日はない上に、気温もジェットコースターみたいに変化する。今日はやたらと寒かった。

家に帰る前に何ヶ所か寄り道をした。冬のセール終了間近なので、何か掘り出し物がないかと探してみたが、残っているものはやはりどれも残っているだけの理由があるものだった。春夏の新作もまだ店頭には出ていなかったので、ひどくスカスカなラックと、セール品でギチギチのラックのコントラストが売り場を物悲しくしていた。

そんな中、私はニュシュカのことを考えていた。本当に私のことを覚えていたのだろうか。だとしたらどうやって?撫で方?声?それとも、匂い…?

私はたくさんのアメリカンショートヘアの中から、ちゃんとニュシュカを見つけ出すことができるだろうか。その時は、どうやって…?


私はニュシュカのようにはきちんと記憶することができないのかもしれないような気がして、少し不安になった。


外は冷たい雨が降り続いていた。


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